エドワード2世は、エドワード1世の息子です。カーナーヴォン城で生まれ、1301年にウェールズ大公に叙されました。ピアス・ギャベストンをはじめとする取り巻きの影響を受けやすく、無能で軽薄と評されることが多い国王です。
対スコットランド戦では「バンノックバーンの戦い」で大敗します。スコットランドは勢いを得て、独立につながりました。
治世を通して諸侯の反感を買いつづけたため、王権の縮小や、議会の発展に、図らずも貢献することとなりました。妃イザベラが政権を掌握すると、エドワード2世は息子に譲位させられ、その後まもなく殺害されました。
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エドワード2世(Edward of Caernarfon)
治世 | 1307年7月8日-1327年1月20日(19年197日) |
継承権 | エドワード1世の息子(生存している中で長男) |
生没 | 1284年4月25日 場所 Caernarfon Castle 1327年9月21日(殺害 / 43歳) 場所 Berkeley Castle |
家系 | プランタジネット家(Plantagenet) |
父母 | Edward I & Eleanor of Castile |
結婚 | Isabella of France(1308年) |
子供 | Edward III, King of England John of Eltham, Earl of Cornwall Eleanor, Countess of Guelders Joan, Queen of Scots Adam FitzRoy (婚外子) |
埋葬 | Gloucester Cathedral |
年表
1307 | エドワード1世の急逝をうけて、エドワード2世が即位 |
1308 | エドワードの寵臣ピアス・ギャベストンが亡命される |
1309 | ギャベストンが亡命先から戻る |
1311 | エドワード2世、「改革勅令」に同意させられる |
1312 | ピアス・ギャベストンが反王派に捕らえられ、処刑される |
1314 | エドワード2世のイングランド軍が、「バンノックバーンの戦い」でスコットランドのロバート・ブルースに破れ、スコットランドの独立が確定的となる |
1320 | ウェールズ辺境伯( Welsh Marches )のディスペンサー父子が、エドワード2世の寵臣となる |
1320 | スコットランド人が「アーブロース宣言( Declaration of Arbroath )」をローマ教皇に提出し、独立を訴える(23年に認められる) |
1322 | バラブリッジの戦い( Battle of Boroughbridge )で改革派諸侯が敗戦 |
1326 | エドワード2世の妃イザベラが、エドワード2世を見捨てて愛人のモーティマとともに実権を握り、エドワード2世を廃位 ディスペンサー父子も殺害される |
1327 | エドワード2世の息子エドワード3世を支持した議会によって、エドワード2世は正式に廃位され、妃イザベラの命令によってバークレイ城で殺害される |
おもなできごと
エドワード2世の戴冠と結婚
エドワード3世はエドワード1世の四男です。兄たちが相次いで早世していたため、1307年に父王エドワード1世が急逝し、王位を継承しました(戴冠は翌年)。エドワード2世はフランス国王フィリップ4世の娘イザベラ( Isabella )を妃に迎えます。フランス王家との緊張状態を緩和する一環として約束されていた結婚でした。
ピアス・ギャベストンとの仲
エドワード2世は、1300年から、ガスコーニュ出身のピアス・ギャベストン( Piers Gaveston )という側近を重用しており、親しすぎる関係が物議をかもしていました。親友であるとも、恋仲であるとも、義兄弟( sworn brothers )※であるとも云われてきましたが、正確なところは不明です。
※義兄弟…固い契りにより、血縁のない男性が、兄弟に等しい盟友関係となること-Wikipedia
史劇:エドワード2世
1592年に上演された「エドワード2世( Edward II )」は、最も古いイングランド史劇のひとつです。エドワード2世とピアス・ギャベストンの関係、そしてロジャー・モーティマによるエドワード2世殺害に焦点が当てられています。
エドワード2世の寵臣※として権力をふるったギャベストンは、イングランド諸侯とフランス王家の両方にとって、秩序を乱す存在でした。エドワード2世がイザベラとの結婚のために渡仏する際には摂政に任じられ、戴冠式では有力諸侯より上座に位置するなど、諸侯の不満と反感を呼びました。
※寵臣( Favourite )…政治的重要人物と親密な関係にある友人・侍臣。中近世のヨーロッパでは、時代・地域を問わず、君主から強大な政治権力を委ねられた人物を表す語として使われた。-Wikipedia
諸侯の訴えによってエドワード2世はギャベストンの追放を余儀なくされますが、1年ほどで呼び戻してしまいます。このため、ついに武装した諸侯らがエドワード2世に迫ります。エドワード2世は「改革勅令( Ordinances of 1311 )」に同意させられることになりました。
改革勅令とは
改革勅令は、世俗諸侯と聖職諸侯の双方が、エドワード2世に突き付けた一連の改革条約で、国王の権限を制限するものです。過去に取り決めされた条款( Provisions of Oxford や Provisions of Westminster )を反映したものですが、新たに財政に係る改革も盛り込まれました。内容はおおまかに以下のものでした。
- ギャベストンら異国出身の取り巻きを追放すること
- 新たな関税を廃止
- 議会の定期開催
- 過去の憲章の確認
- 王室の収入を国庫に充てる
こうしてギャベストンは諸侯によってもういちど追放されるのですが、エドワード2世は「改革勅令」を取り消し、ひそかに寵臣を呼び戻します。すると、第二代ランカスター伯トマス( Thomas, 2nd Earl of Lancaster )※らのグループが先まわりしてギャベストンを捕え、処刑してしまいました。1312年のことでした。
スコットランドに大敗、そして飢饉
エドワード2世のイングランド軍は、スコットランド王ロバート・ブルース( Robert the Bruce )との戦いで、大敗を喫しました。1314年の「バンノックバーンの戦い( Battle of Bannockburn )※」です。
※バンノックバーンの戦い…1314年6月23‐24日。スコットランド独立戦争( War of Scottish Independence )の第一回。スコットランド史において重要かつ人気の高い戦争。
また直後には大飢饉( Great Famine )に見舞われました。
1328年にスコットランドと和平条約( truce )を結ぶことになります。
ディスペンサー戦争
ギャベストンは処刑されましたが、新しくディスペンサー父子、とりわけ息子( Hugh Despenser the Younger )が、エドワード2世の近しい友人となりアドバイザーとなりました。
1321年、ランカスター伯をはじめとする改革派諸侯は、軍事行動に出てディスペンサー家の領土を押さえました。そしてエドワード2世に「ディスペンサー父子の追放」を要求しました。これに対してエドワード2世も軍を動員します。
この争いは「ディスペンサー戦争( Despenser War )」と呼ばれ、最終的には宮廷派が勝利しました。改革派を率いたランカスター伯は捕らえられて処刑されました。
権力を取り戻したエドワード2世は、ディスペンサー父子といっそう絆を強めました。公式に「1311年の改革勅書」を取消し、改革派諸侯を処刑し土地を没収しました。何名かの諸侯は亡命しました。
妃イザベラとモーティマによるイングランド侵攻
ディスペンサー政権への反感は高まっていました。
1325年、妃イザベラが和平交渉※のためにフランスに送られます。しかしイザベラの本心はエドワード2世と対立するものでした。フランスに渡ったイザベラはイングランドへの帰国を拒み、亡命中のロジャー・モーティマ( Roger Mortimer )と手を結んで、1326年にイングランドに侵攻( Invasion of England )しました。
※和平交渉…1324に起きた、ガスコーニュ地方を巡るフランス対イングランドの短い戦争( War of Saint-Sardos )の和平交渉。フランスが勝利。間接的にエドワード2世の転覆につながるものであり、また百年戦争の先駆けのひとつとして見られることもある。
国王政権は転覆し、エドワード2世はウェールズへと逃げますが、捕らえられてしまいます。翌1月、エドワード2世は、14歳の息子エドワードに譲位することを強制されました( Parliament of 1327 )。
同年9月、エドワード2世はバークレー城( Berkeley Castle )で亡くなります。新政権で実権を握る者の命令によって、殺害されたものと考えられています。
地図
バークレイ城
エドワード2世が殺害されたバークレイ城です。
参考
Kings and Queens of England & Britain
Edward_II_of_England
Edward II and Edward III
King Edward II (1307 – 1327)
A Really Useful Guide to Kings and Queens of England
物語イギリスの歴史(上)