ウェールズを征服したイングランド国王エドワード1世は、その過程でウェールズに城を建てました。ビューマリス城(Beaumaris Castle)、ハーレック城(Harlech Castle)、コンウィ城(Conwy Castle)、そしてカーナーヴォン城(Caernarfon Castle)などは、エドワード1世によって建てられた城です。
それぞれ一般公開されているので入城できます!このページでは、簡単な歴史とともにそれぞれの城を紹介しています。公式サイトへのリンクも張っています。
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Beaumaris castle
ビューマリス城
ビューマリス城の構造
建材には地元の石が使われ、堀で囲われた外郭には12の見張り塔が立ち、内郭には2つのゲートハウス(楼門)と6つの大きな塔が設けられています。内郭は、主と一部の家臣や召使などを含んだおおきな世帯が、2世帯暮らせるよう、設計されています。
南の門には船でアクセスが可能で、海からの物資を直接搬入できるようになっています。ユネスコは、ビューマリス城を「13世紀~14世紀のヨーロッパにおける要塞建築の見事な例」と評しています。世界遺産にも登録されています。
動画紹介
ビューマリス城の歴史
ビューマリス城は、イングランド国王エドワード1世によってウェールズのアングルシーに建てられた城です。
13世紀:未完の城
1284年頃に計画されましたが資金不足で着工は1295年からとなりました。
しかしエドワード1世のスコットランド侵攻の遠征のためにふたたび資金不足となって、築城は一時中断されたのち、1306年から再開されたものの1330年には未完成のまま放棄されてしまいました。
この未完の城に、当時にして莫大な金額15,000ポンドが費やされていました。
15世紀:反乱勢と駐屯軍の攻防
イングランドの支配に対してウェールズでは、オワイン・グリンドゥールが率いた反乱が断続的に起きました(1400-1415)。1403年には反乱勢がこの城を掌握しました。しかし、1405年にイングランド国王軍が奪い返します。
16世紀:カトリック司祭の投獄
16世紀、ヘンリー8世の時代にイングランドはローマカトリック教会から離脱し、英国国教会を設立しました。1592年に、カトリックの司祭ウィリアム・デイビットがこの城に投獄されました。ウィリアム・デイビットはこののち、極刑に処されて殉教しました。
17世紀:王党派と議会派の攻防をへて廃墟へ
1642年、イングランドでは議会派と王党派が争う内戦が勃発しました。このときビューマリス城はチャールズ1世下の王党派が保持していましたが、1648年に議会派に明け渡すことになります。ビューマリス城は破壊をまぬがれ、議会派軍の駐屯地として利用されました。しかし1660年頃に廃墟となりました。
19世紀~:観光名所として
ビューマリス城が風格のある豪邸の一部として蘇ったのは19世紀です。21世紀の現在は、観光客を迎える魅力的な城跡となっています。
旅行情報
Harlech castle
ハーレック城 / ハーレフ城
ハーレック城の構造
ユネスコは、ビューマリス城、コンウィ城、カーナーヴォン城と並んでハーレック城も「13世紀~14世紀のヨーロッパにおける要塞建築の見事な例」のひとつとして評価しています。もちろん世界遺産に登録されています。
建材には地元の石が使われています。集中式城郭(concentric)※と呼ばれる構造で、城の中心部は二重の壁で囲われています。巨大なゲートハウスは、城の高官や高位の来客の宿泊施設を備えていたと考えられています。
中世の海岸線は現在よりも城に近い距離にあり、水門と長い階段を経て海からの物資の補給が可能でした。
動画紹介
ハーレック城の歴史
ウェールズの北西グウィネズの沿岸の岩石の丘の上に、ハーレック城は建っています。エドワード1世によるウェールズ侵攻(1282-1289)のときに建てられた城で、費用はおよそ8,190ポンドと見積もられています。
13世紀末:包囲戦に持ち堪える
イングランドの支配に抗ったマドッグ・アプ・リウェリン(Madog ap Llywelyn)が率いた反乱(1294-95)において、ハーレック城は包囲戦に持ち堪えました。
15世紀前半:駐屯軍と反乱勢の攻防
13世紀の反乱に耐えたハーレック城ですが、オワイン・グリンドゥール(Owain Glyndŵr)が率いる反乱(1400-1415)のときには陥落しました。1404年のことでした。
ハーレック城は、1409年にイングランド軍に奪い返されるまで、グリンドゥールの基地となりました。
15世紀後半:ばら戦争での攻防
1455年から1487年にかけて、イングランドの王侯貴族が二派に分かれて王位を争った壮大な内戦「ばら戦争」※が起こりました。ハーレック城は当初ランカスター派が掌握していましたが、1468年にヨーク派の手に落ちました。
ばら戦争(1455-1487)…プランタジネット王家の血を引くランカスター系(赤バラ)とヨーク系(白バラ)が、貴族諸侯を巻き込んで王位を争った内戦。戦争中にいずれの男系も断絶しプランタジネット家の男系は途絶えた。最終的にランカスター系の母をもつウェールズ人のヘンリーが王位を手にし、テューダー朝が開かれた。
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17世紀:王党派が降伏
17世紀のイングランドで王党派と議会派が争う戦争(1642–1651)が勃発します。1642年、ハーレック城は王党派が保持していましたが、1467年に議会派に降伏しました。
21世紀:観光名所として
現在は、ほかの城と同じく、Cadw(Cadw)の管理下で保存され、観光客を惹きつけています。
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Conwy Castle
コンウィ城
コンウィ城の構造
コンウィ城は、ユネスコに「13世紀~14世紀のヨーロッパにおける要塞建築の見事な例」と位置付けられ、世界遺産に登録されています。
建材には地元の石と輸入された石の両方が使われています。コンウィ川の沿岸に建ち、築城当初の重要な船の交差点に位置しています。
内郭と外郭に分かれ、8つの大きな塔とふたつのバービカン(Barbican / 甕城)※によって守られています。海につながるバービカンは、物資の補給ができるよう設計されました。
※バービカン…城と外部の間に築かれた要塞化されたゲート
この城の「石の出し狭間」は、ブリテン島に遺るなかで最も古いとされています。また、この城の「王族の寝室」はイングランドおよびウェールズに遺る中世の城の中で、もっとも保存状態が良いと言われています。
動画紹介
コンウィ城の歴史
北ウェールズに位置するコンウィ城も、エドワード1世によって、ウェールズ征服(1283-1289)際に建てられた城です。要塞都市コンウィの建設にともなって城も建築されました。費用は合わせて15,000ポンドでした。
のち数世紀にわたって、コンウィ城は様々な戦争で重要な役割を担いました。
13世紀末:冬の包囲戦に耐える
1294年~95年に起きたマドッグ・アプ・リウェリンの反乱では、冬の包囲に耐えました。
14世紀末:リチャード2世が一時避難
1399年、イングランド国王リチャード2世が一時的にコンウィ城に避難しました。リチャード2世はまもなく、従兄弟のヘンリー(のちのヘンリー4世)によって廃位させられました。
15世紀:ウェールズの反乱勢が占拠
イングランドの支配からの独立に挑んだオワイン・グリンドゥール(Owain Glyndŵr)の反乱(1400-1415)で、オワインを支持するウェールズ勢力が1401年の数か月間、この城を占拠しました。
17世紀:議会派の手にわたり廃墟へ
王党派と議会派が争ったイングランド内戦(1642–1651)においては、チャールズ1世を支持する王党派が1646年までコンウィ城を守りましたが、最終的に議会派軍に降伏しました。
コンウィ城は議会派によって一部が破壊されたのち1665年には完全に廃墟となりました。建材の一部は、売り払われました。
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18世紀~21世紀:絵画の題材そして観光名所へ
18世紀末~19世紀初頭にかけてコンウィ城は、人気の絵画題材となりました。来訪者が次第に増え、19世紀後半から城の修復が行われるようになりました。21世紀の今日も、魅力的な観光地として遺っています。
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Caernarfon castle
カーナーヴォン城
カーナーヴォン城の構造
この地には、11世紀後半に、モット・アンド・ベイリー型の城が建てられていました。この城は木造で、周囲には堀がめぐらされていました。エドワード1世はここに恒久的な石造りの城を建てました。城のレイアウトは、土地の形と、もともとあった堀の形によってほぼ決まりました。
カーナーヴォン城の外周は数字の8に近い形をしています。西と東の2つの棟に分かれていました。東の棟には、王族が寝泊まりする施設もありました。ただし完成しませんでした。要塞化された一連の建物も同様に、完成しませんでした。
カーナーヴォン城の外観は、エドワード1世が建てた他の城と異なっています。壁に色のついた石を使っていることや、塔が円形ではなく多角形である点です。この理由についてはいろいろな見解があります。
考えられる理由のひとつに「コンスタンティノープルの壁を模した」とする説があります。ビザンツ帝国(東ローマ)のイメージを意図的に再現し、これによってエドワード1世の支配権を表したとするものです。あるいは、ローマ風の外観によってアーサー王伝説を彷彿とさせ、支配の正当性を印象付ける狙いがあったとする説もあります。
城には2つの城門が設けられています。ひとつは「王の門(the King’s Gate)」と呼ばれ街につながっており、他方は「王妃の門(the Queen’s Gate)」と呼ばれ街を介さずに外につながっています。
もし「王の門」が完成していたら、来訪者は2つの跳ね橋をわたり、5つの扉と6つの落とし格子の下を通過したのち直角に曲がる必要があったでしょう。
城壁と塔はよい状態で保存されていますが、内部に遺るのはほぼ建物の基礎のみです。基礎だけとはいえ、大広間は素晴らしい建物だったことがうかがえます。
もし、カーナーヴォン城が完成していたなら、国王と家臣や召使を含む所帯(数百人)を収容できたことでしょう。
動画紹介
カーナーヴォン城の歴史
カーナーヴォン城は、1283年にエドワード1世が石造りの城に建て替えるまで、モット・アンド・ベイリー型の木造の城でした。11世紀後半に建てられたものです。
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エドワード1世時代に築かれたカーナーヴォンの町と城は、北ウェールズ支配の中心地として機能しました。
城の建築と並行して、街壁も築かれました。1330年の完成までにかかった費用はおよそ20,000ポンド~25,000ポンドと考えられています。
カーナーヴォン城は外から見ると完ぺきな城に見えますが、内部の建物はほぼ残っておらず、また多くの建物はそもそも完成しないままでした。
エドワード1世の息子エドワード2世は、1284年の4月25日に、カーナーヴォン城で生まれたと伝えられています。1301年に「ウェールズ大公(Prince of Wales)」に叙せられ、ウェールズの財政をふくめて支配しました。これ以来「ウェールズ大公」という称号は、イングランドの王家の長男に与えられるようになりました。
13世紀末:反乱勢との攻防
1294年、カーナーヴォン城は、イングランドの支配に対して蜂起したマドッグ・アプ・リウェリン(Madog ap Llywelyn)の手に落ちました。しかし翌年にイングランド軍が奪い返しました。
15世紀初頭:包囲戦
ウェールズのオワイン・グリンドゥール(Owain Glyndŵr)が率いた反乱では、カーナーヴォン城は標的のひとつとされ、1401年に包囲されました。1403年と1404年にも、フランスの支援を得たウェールズ勢に包囲されます。このときの駐屯兵は30人前後であったといいます。
15世紀後半:城の重要性が低くなる
ばら戦争(1455-1487)を経てイングランド王位に就いたヘンリー7世は、ウェールズのテューダー家の血筋です。ヘンリー7世がイングランド国王になったことで、ウェールズとイングランドの敵対関係は緩和されました。この結果、カーナーヴォン城などの城塞の軍事的な重要性は低くなり、荒廃しました。
17世紀:王党派と議会派の攻防
1642年から1651年にかけて、イングランドは王党派と議会派が争う内戦に突入しました。老朽化していたカーナーヴォン城ですが、王党派がこれを保持し、議会派に3度にわたって包囲されました。カーナーヴォン城が戦争に使われたのは、この内戦が最後です。
19世紀~:観光名所およびウェールズ大公の叙任式場として
19世紀に修復されるまで、城は捨て置かれました。20世紀にはいってからは、1911年と1969年にカーナーヴォン城でウェールズ大公の叙任式が行われました。
旅行情報
参考
Conquest_of_Wales_by_Edward_I
Beaumaris_Castle
Caernarfon Castle
Conwy Castle
Harlech Castle
Castles and Town Walls of King Edward in Gwynedd