ヘンリー6世はヘンリー5世の息子です。トロワ条約※を結んだ父王エドワードと母方の祖父シャルル6世が相次いで急逝したため、生後9ヶ月未満で、イングランド国王およびフランス国王として即位することになりました。
※トロワ条約…1420年にイングランドとフランス間で結ばれた和平条約。 ヘンリー5世にフランス王位の継承権を認める内容で、その一環としてヘンリー5世とシャルル6世の娘カトリーヌ(キャサリン / Catherine of Valois )との結婚が成立。ここに生まれたのがヘンリー6世。
しかしフランス王位を巡っての戦争は再開され、1453年にイングランド(プランタジネット家)は敗退します。さらに国内では貴族間の紛争がおこり、俗に言う「ばら戦争」へと発展しました。ヘンリー6世は廃位させられロンドン塔で殺害されました。
ヘンリー6世(Henry VI)
治世 | 1回目: 1422年9月1日-1461年3月4日(38年185日) 2回目: 1470年10月3日-1471年4月11日(191日) |
継承権 | ヘンリー5世の息子 1回目:長子相続 2回目:王位奪取 |
生没 | 1421年12月6日:場所 Windsor Castle 1471年5月21日(49歳 / 殺害):場所 Tower of London |
家系 | プランタジネット家(Plantagenet) ランカスター系(Lancaster) |
父母 | ヘンリー5世(Henry V) & 仏王娘キャサリン(Catherine of Valois) |
結婚 | Margaret of Anjou(1445年) |
子供 | ウェールズ大公エドワード(Edward of Westminster, Prince of Wales) |
埋葬 | St George’s Chapel |
年表
1422 | 生後9ヵ月に満たないヘンリーが、父王ヘンリー5世の急逝によってイングランド国王に即位 翌月にフランス国王シャルル6世も亡くなり、フランス王位も継承 |
ベッドフォード公爵ジョン( John )がフランスの摂政に任命される グロスター公ハンフリー( Humphrey )がイングランドの摂政になる | |
1429 | ヘンリー6世のイングランド国王としての戴冠式 |
農家の娘ジャンヌ・ダルク( Joan of Arc )の登場:イングランド人によって包囲されていたオルレアンを解放 | |
1431 | イングランド軍がジャンヌ・ダルクを捕縛 魔女であり異端者であるとして5月に焚刑に処す |
ヘンリー6世、パリのノートルダム大聖堂でフランス国王「アンリ2世」として戴冠 | |
1437 | ヘンリー6世の親政開始 |
1440 | イートン校の設立 |
1445 | ヘンリー6世、アンジューのマーガレット( Margaret of Anjou )と結婚 |
1453 | 百年戦争の終結 ガスコーニュとノルマンディがフランスの手に落ち、イングランドにはカレー( Calais )とチャネル諸島( The Channel Islands )だけがのこる |
ヘンリー6世、精神疾患を患う ヨーク公リチャード( Richard, Duke of York )が護国卿に就任 | |
ヒューワースの戦い( Battle of Heworth ):ネヴェル家( House of Neville )とパーシー家( House of Percy )の争い:ばら戦争の火種となる | |
1454 | ヘンリー6世が一時的に回復するも、貴族たちが舵をとる 貴族がヨーク系派とランカスター系派の支持者に分かれる |
1455 | 「ばら戦争」はじまる マーガレットによるヨーク公の解任 ⇒ ヨーク派が蜂起 セント・オールバンズの戦い( Battle of St. Albans ):ランカスター(国王)派の軍を破る ランカスター派を率いるサマーセット公が殺害され、ヨーク派が実権をにぎる |
1457 | ヘンリー6世、ヨーク派とランカスター派の和解を試みるが不成功 |
1459 | ばら戦争再開 ブロア・ヒースの戦い( Blore Heath ):ヨーク派の勝利 ラドフォード橋の戦い( Ludford Bridge ):ランカスター派の勝利⇒ヨーク公が亡命 |
1460 | ノーサンプトンの戦い( Battle of Northampton ):ウォリック伯( Richard Neville, Earl of Warwick )率いるヨーク派の勝利 ヘンリー6世と妃マーガレットが捕虜とりなったのち、妃が脱出しスコットランドに避難 ヨーク公( Richard of York )が護国卿に就く |
ウェイクフィールドの戦い( Wakefield ):マーガレットが兵を挙げ勝利、ヨーク公リチャードが戦死 | |
1461 | モーティマーズ・クロスの戦い( Battle of Mortimers Cross ):ヨーク派の勝利 セント・オールバンズの戦い( St Albans ):マーガレット軍の勝利…ウォリック伯を討ち、ヘンリー6世を解放 タウトンの戦い( Battle of Towton ):ヨーク公リチャードの息子エドワードがマーガレットのランカスター軍を破る…マーガレットとヘンリー6世、スコットランドに避難…エドワード( Edward )がヘンリー6世を廃し、エドワード4世として即位を宣言 |
1462 | ランカスター派の反乱が鎮圧される |
1464 | ヘクサムの戦い( Battle of Hexham ):ウォリック伯がランカスター軍を破り、ヘンリー6世が捕虜となりロンドン塔へ移送される |
1469 | エッジコート・ムーアの戦い( Edgecote ):ウォリック伯がエドワード4世を裏切り、エドワード4世を破る エドワード4世がフランダースに逃れ、ヘンリー6世が復位する |
1471 | バーネットの戦い( Battle of Barnet ):イングランドに戻ったエドワードがウォリック伯を討つ テュークスベリーの戦い( Battle of Tewkesbury ):エドワードがマーガレット軍を破る…この戦いでヘンリー6世の息子エドワードが落命(17歳) |
ヘンリー(6世)、ロンドン塔で刺されて亡くなる |
おもなできごと
生後9ヶ月未満で英仏両王に即位
ヘンリー6世は、父王ヘンリー5世( Henry V )の急逝に伴い、生後9ヶ月でイングランド国王となりました。翌月、母方の祖父であるシャルル6世( Charles VI )も亡くなったため、フランス王位も継承しました※。イングランドとフランスの両国に共通の国王が君臨した瞬間です。
※トロワ条約…1420年にイングランドとフランスの間に結ばれた平和条約。イングランド王ヘンリー5世がシャルル6世の死後にフランス王位を継承するとするもの。ヘンリー5世はシャルル6世の娘キャサリンと結婚し、ここに生まれたのがヘンリー6世。
バロワ家との戦争再開(英仏百年戦争)
ヘンリー6世がフランスの王位を継承することは、バロワ条約に則ったもので、正当な権利がありました。しかしフランスのアルマニャック派※は、生後9ヶ月の赤ん坊を支持せず、フランスの旧王太子シャルル※を支持しました。
王太子シャルルがフランス王位を請求したため、戦争(百年戦争 / Hundred Years’ War )が再開されてしまいました。
※アルマニャック派…フランスの主導権を巡ってブルゴーニュ派と対立していた派閥
※王太子シャルル…先王シャルル6世の息子で、ヘンリー6世の母方の叔父にあたる。トロワ条約の締結前には、正統なフランス王位継承者だった。英仏戦に勝利し、シャルル7世となる。
当初は優勢を誇ったイングランドでしたが、ここに登場したのがジャンヌ・ダルク( Joan of Arc )※です。農家の娘にすぎなかった彼女が、大天使や聖人のお告げを聞いたとして王太子シャルルを鼓舞し、軍の士気を高め、シャルルを戴冠(1429年)に導きました。
※ジャンヌ・ダルク…イングランド軍が包囲していたオルレアンを解放するために現地に送られ「オルレアンの乙女」として知られる。
ジャンヌ・ダルクは1430年に捕らえられ、翌年に処刑されます。なお、ジャンヌを捕えたのは、プランタジネット家を支持しイングランド軍と同盟していたブルゴーニュ軍(仏)です。
英仏百年戦争に敗退
ヘンリー6世の叔父ベッドフォード公ジョン( John, Duke of Bedford )がフランスの摂政をつとめていましたが、1435年に亡くなります。するとブルゴーニュ公国はシャルル7世側に寝返って「アラス条約(Treaty of Arras)」にサインしました。これによって、フランスにおけるプランタジネット家(イングランド)の支配が完全に崩れました。
親政を開始するまでに危機的状況に
ヘンリー6世の治世のはじめは、摂政らによって統治されました( Regency government, 1422–1437 )。はじめは好調だった軍事、外交、経済も徐々に問題を呈するようになり、1437年にヘンリー6世が親政を開始するまでには、すでに危機的状況に陥っていました。
このあとイングランドは様々の戦いに敗戦します。1453年の「カステリョンの戦い( Battle_of_Castillon )」が最後の戦いとなりました。
英仏の小競り合いはのち20年間続き1475年の「ピキニー条約(Treaty of Picquigny)」をもって公式の終戦とされますが、1453年を終戦とみなす場合が多いです。
プランタジネット家は、フランス内で獲得していた領土も、カレーの港を除いてすべて失いました。
優れた武人として鳴らした父ヘンリー5世とは異なり、ヘンリー6世は臆病で、引っ込み思案で、受け身的で、善意に満ち、戦争や暴力を嫌ったと説明されることが多い国王です。また、対仏戦で大敗を喫したとの報を聞いて、神経性の発作を起こし、精神病に罹ってしまいました。
貴族間の内戦ぼっ発、ヘンリー6世の殺害
国王が幼少であったり、病気であったりすると、一部の貴族が実権を握るようになります。さらに、対仏戦に敗退したこと、戦争に費やした軍資金も莫大だったことなどから、イングランドの内政は困難な状況に陥りました。ここに派閥が生じ、貴族間の内戦へと発展してゆきます(ばら戦争 / Wars of the Roses )※。
※ばら戦争…プランタジネット家の2つの支流ランカスター系(赤ばら)とヨーク系(白ばら)がイングランド王位を争い、30年に及んだ反乱や内戦の総称。ランカスター傍系のヘンリー・テューダーが勝利して終戦する(1485)。
ヘンリー6世と妃を支持するランカスター派と、ヨーク公爵を擁立し支持するヨーク派に分かれた貴族たちが戦争を行いました。
「ウェイクフィールドの戦い( Wakefield )の戦い」でヨーク公爵は戦死しますが、「テュークスベリーの戦い( Battle of Tewkesbury )」でヘンリー6世の王太子エドワードも落命しました。
ヨーク公の後継ぎ息子エドワードが4世として即位し、ヘンリー6世は廃位させられます。しかし有力貴族のウォリック伯( 16th Earl of Warwick )がエドワード4世からヘンリー6世に寝返って、ヘンリー6世を復位させました。ところが、エドワード4世が反撃にでてウォリック伯を打ち、ヘンリー6世は再び廃位させられてロンドン塔に幽閉されました。
ヘンリー6世は、ロンドン塔で殺害されて生涯を終えることになりました。
妃マーガレット
ヘンリー6世は1445年、フランス王妃の姪マーガレット妃( 当時15歳 / Margaret of Anjou )と結婚します。ヘンリー6世と正反対の正確だったマーガレットは、勝ち気で好戦的でした。
1455年、マーガレットはヨーク公とその派閥を宮廷から追い出しました。これがきっかけでヨーク派が反乱をおこします。のち16年間、精神病をわずらう国王に代わってマーガレットがランカスター派を率いました。マーガレットは、ヨーク公の野望(護国卿、あわよくば王位を狙う)を阻止し、自身の息子である王太子エドワードの地位を守ることに努めました。
地図
キングスカレッジ(ケンブリッジ)
ヘンリー6世によって設立されたカレッジです。
ケニルワース城
ランカスター公ジョン・オブ・ゴーント(ヘンリー6世の曽祖父 / John of Gaunt )が、ケニルワース城に住まいを建てました。ランカスター王家のひとびとが好んで滞在し、ヘンリー6世と妃マーガレットは1450年代に頻繁にここに滞在したといいます。
参考
Kings and Queens of England & Britain
Henry_VI_of_England
Henry VI (r.1422-1461 and 1470-1471)
The Wars of the Roses and the Princes in the Tower
King Henry VI (1422 – 1461)
A Really Useful Guide to Kings and Queens of England
物語イギリスの歴史(上)