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抜粋文:このページでは、4ヶ国すべての君主※を掲載しています。知りたい国家および年代を、目次から選択してジャンプしてください。 ※「イギリス」は正式名称を「グレートブリ.....
ウィリアム2世(William Rufus)
治世 | 1087年9月26日-1100年8月2日(12年311日) |
継承権 | ウィリアム1世の息子 |
生没 | c.1056年:Normandy 1100年8月2日:New Forest |
家系 | ノルマンディ家 |
父母 | William the Conqueror & Matilda of Flanders |
結婚 | - |
子供 | - |
埋葬 | ウィンチェスター大聖堂(Winchester Cathedral) |
年表
1087 | 父ウィリアム1世を継いで、三男ウィリアム2世がイングランド王位に就く |
1088 | 兄ロバートを支持した叔父オドの反乱をウィリアム2世が鎮圧 |
1089 | 司法長官に任じられたラナルフ・フランバード(Ranulf Flambard)が、教会に重い税を課す |
1090 | 兄ロバート打倒を目指して、ウィリアム2世がノルマンディに侵攻 |
1091 | スコットランドのマルカム3世(Malcolm III)がイングランドに侵攻、ウィリアム2世がこれを討つ |
1092 | カーライル(Carlisle)とカンバーランドをスコットランドから獲得 |
1093 | マルカム3世がイングランドに再侵攻し、敗戦し、落命する(Battle of Alnwick) |
1095 | ウィリアム2世、ノーザンブリアの反乱を鎮圧(Rebellion and downfall) |
1095 | ローマ教皇ウルバヌス2世(Pope Urban II)の呼びかけで第一回十字軍遠征がはじまる(十字軍…ムスリムに掌握された聖地エルサレムの奪還を掲げる) |
1098 | ウィリアム2世、ウェールズ人による反乱を鎮圧 (1081-1094年にかけて、ウィリアム2世がウェールズに侵攻し支配を及ぼしていた) |
1099 | 第一回十字軍がエルサレムを奪還 |
1100 | ウィリアム2世、ニューフォレストで狩猟中に落命 |
おもなできごと
イングランド王位継承
先王のウィリアム1世(征服王)には4人の息子がいました。上からロバート、リチャード、ウィリアム、ヘンリーです。長男ロバートはノルマンディ公爵領と爵位を継ぎ、次男リチャードは若くして亡くなっており、三男ウィリアムがイングランド王国と王位を継いでウィリアム2世となりました※。なお、四男のヘンリーには継承できる土地がなく、お金を相続しました。
※当時のノルマン貴族社会では、先祖代々の領地を長男に継ぎ、新たに獲得した土地は次男以下に分割することが、あるていど慣習化されていた。
1088年の反乱
ウィリアム征服王がノルマンディとイングランドを分けて2人の息子に相続したことで、一部の諸侯は困った立場におかれました。ノルマンディとイングランドの両方に土地を与えられていた諸侯にとっては、君主と仰ぐべき人が2人になってしまい、この2人は互いの領土と地位を狙ってライバル関係になっていたからです。あちらを立てればこちらが立たずの状況だったので、忠誠を果たせず、いずれかの土地を没収されかねません。このような諸侯は、ひとりの君主のもとでノルマンディとイングランドが再統一されることを切望しました。そこで彼らは唯一の君主としてロバートを選び、ウィリアムに反旗をひるがえします。これが1088年の反乱です。この反乱を率いたのは、両者の叔父(先王の異母兄弟)にあたるオド(Odo of Bayeux)でした。
しかしこの反乱はウィリアム2世によって鎮圧されました。なお、オドはイングランドを去り以降はノルマンディでロバートに仕えました。
「赤ら顔」のニックネーム
ウィリアム2世のニックネームは「ルーフェス(Rufus)」です。赤みを帯びた、という意味があります。怒りによるものか、お酒によるものか、道楽が過ぎたことによるものかはわかりませんが、赤ら顔だったと考えられています。
教会の収入を横取り
イングランド国王に即位したウィリアム2世は、不人気でした。1089年にカンタベリー大司教(Lanfranc)が亡くなったあと4年間も後任を指名せず、教会の収入を横取りするなどしたためです。1093年にようやく後任の大司教(Anselm)が就任すると、教会の権限をめぐってウィリアム2世と対立しました。
暗殺か事故死か
ウィリアム2世はニューフォレスト(New Forest)で狩猟中に、矢に当たって亡くなりました。この矢を放ったのはウォルター・ティレル(Walter Tirel)だとされています。アングロノルマン系の貴族で、優秀な射手として有名だった人物です。ティレルは、ウィリアム2世に伴って狩猟に参加しており、事件後はフランスに逃亡しました。暗殺なのか、事故なのか、定かではなく謎の多い最後になりました。
ウィリアム2世が倒れたとされる場所に、石碑(Rufus Stone)が建っています。
この事件の恩恵を受けたのは四男のヘンリーです。この狩猟に同行していました。ヘンリーは事件を受けて迅速に行動し、ノルマンディにいた長男ロバートを凌いで、イングランド王位に就きました。
地図
カーライル城
カーライル城はウィリアム2世の時代に建設がはじまりました(1093年)。この頃のカンブリア地域(Cumberland)はスコットランドの一部だと考えられていましたが、ウィリアム2世はスコットランドに侵攻して、ここを獲得しました。国境を守るために、ノルマン様式のモットアンドベイリー型の城を築いたのが始まりです。この城は、かつてのローマ要塞(Luguvalium)の跡地に建てられています。
ルーフェスストーン
矢に当たって死亡したとされる場所に碑が建てられています。
参考
Kings and Queens of England & Britain
English_monarchs
William II
Rebellion_of_1088
William II and Henry I
William II
A Really Useful Guide to Kings and Queens of England