ヘンリー1世(Henry Beauclerc)
       

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抜粋文:このページでは、4ヶ国すべての君主※を掲載しています。知りたい国家および年代を、目次から選択してジャンプしてください。 ※「イギリス」は正式名称を「グレートブリ.....

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ヘンリー1世(Henry Beauclerc)

ヘンリー1世
出典 Wikimedia Commons
治世1100年8月5日-1135年12月1日(35年119日)
継承権ウィリアム1世の息子
生没1068年:Selby
1135年12月1日:Saint-Denis-en-Lyons(67歳)
家系ノルマンディ家(House of Normandy
父母William the ConquerorMatilda of Flanders
結婚1100年:Matilda of Scotland
1121年:Adeliza of Louvain
子供Matilda of Scotland:MatildaWilliam Adelin
Adeliza of Louvain:-
ほか婚外子多数
埋葬Reading Abbey
イングランド国王ヘンリー1世

年表

1100ウィリアム2世が亡くなり、ヘンリー1世が王位継承
ヘンリー1世「自由の憲章」を発布(Charter of Liberties
ヘンリー1世、スコットランドのマチルダ(Matilda of Scotland)と結婚
1101長兄ノルマンディ公爵ロバートがイングランド王位を請求
アルトン条約(Treaty of Alton)が結ばれ、ヘンリー1世のイングランド王位とロバートのノルマンディ公爵位を互いに認める
1106ヘンリーとロバートの戦争
ヘンリーがロバートを「タンシュブレーの戦い(Battle of Tinchebray)」で破り、ノルマンディ公爵領を掌握する(ロバートはカーディフ城に捕らわれ余生を送る)
1118ヘンリー1世の妃マチルダが亡くなる
1120ヘンリー1世の唯一の嫡男ウィリアムが海難事故で落命
ヘンリー1世は娘マチルダを後継者に指名
1121ヘンリー1世、アデライザ・オブ・ルーヴァン(Adeliza of Louvain)と再婚
1126ヘンリー1世、諸侯を招き、娘マチルダを正当な王位継承者として認めさせる
1128ヘンリー1世の娘マチルダ、アンジュー伯ジェフリーと結婚
1135ヘンリー1世、ルーアンで死去(食中毒説)
年表:イングランド国王ヘンリー1世の治世

おもなできごと

イングランド王位継承

先王ウィリアム2世は、結婚せず、子供もいないまま、狩猟中の事故もしくは暗殺によって亡くなりました。イングランド王位は長兄ロバートに継がれるのが自然な成り行きでした。両者間でそのような取り決めを行っていたらしいのです。しかし実際に王位に就いたのは四男のヘンリーでした。

四男ヘンリーの生い立ち

先々王のウィリアム1世(征服王)には4人の息子がいました。上からロバート、リチャード、ウィリアム、ヘンリーです。長男ロバートはノルマンディ公爵領を継ぎ、次男リチャードは若くして亡くなっており、三男ウィリアムがイングランド王国を継いでウィリアム2世となりました四男のヘンリーには継承できる土地がなかったので、お金を相続しました。ヘンリーは、このお金を長兄ロベールに支払って、ノルマンディに小さな領土を得るのですが、のちに没収されて争いになりました。

※当時のノルマン貴族社会では、先祖代々の土地を長男が継ぎ、新たに獲得した土地を次男以下で分割することがあるていど慣習化されていた。

ウィリアム2世が亡くなったとき、イングランドに居たヘンリーは、主だった諸侯の支持をとりつけ、すぐさまウィンチェスターの宝物室に向かい、数日後にウェストミンスターで戴冠式を挙行しました。いっぽうでロバートは、十字軍に参加しており、遠征の帰途にあったため出遅れました。

※ウィンチェスターと宝物室(royal treasury)…ウィンチェスターはノルマン王室の政治拠点。宝物室は、国王の宝物や貨幣、機密文書などを管理し保管している場所。

ヘンリーは王位に就くとすぐ、スコットランド王マルカム3世の娘マチルダと結婚します。マチルダは母方からウェセックス王家の血を引いていたので、ヘンリーはこの結婚によってサクソン人の支持を得て王権を強化することができました。

有力諸侯のなかにはロバートを支持する者もいたので、ヘンリーは味方を増やす必要があったのです。また、この結婚はスコットランドとの国境を守ることにも役立ちました。

※マチルダ…本来の洗礼名は Edith。結婚に際しヘンリーの母マチルダから名をあやかり改名。ノルマン人に受け入れられやすい名前でもある。
※ウェセックス王家…アングロサクソン時代のイングランド王家の家系。マチルダは、エドガー・アシリングの姪にあたる。

ノルマンディ公爵領をも掌握

イングランド国王になったヘンリー1世は、のちに長兄ロバートとの戦い(Battle of Tinchebray)にも勝利して、ノルマンディ公爵領をも支配下に収めました。ウィリアム征服王の頃と同じように、ひとりの君主のもとで、イングランド王国とノルマンディ公爵領が治められることになりました。なお、戦に負けた長兄ロバートは捕らわれの身として余生を送りました。

勤勉で聡明でワイルド

ヘンリー1世のあだ名は「Beauclerc」、勤勉で聡明というような意味です。ラテン語を読んだり、イングランドの法を学ぶなどしました。数々の戦争に勝利を重ね、戦術にも長けていました。また、婚外子が少なくとも21人は居たと考えられています

※当時の社会においては、アングロノルマン貴族の未婚男性が売春婦や地域の女性と関係をもつことは一般的で、国王が複数の愛人を持つことも珍しくなかった。

支配域の治め方

諸侯を抱き込む

ヘンリー1世は、イングランドとノルマンディの様々な諸侯を政治的に巧みに操ることで、両支配域を治めました。ヘンリーは、諸侯の派閥間争いをうまく調停し、忠義を示した者には褒美で報い、逆らう者は罰し、スパイ網をめぐらして情報を得て、敵は駆逐し、味方の諸侯を抱き込みました。それぞれの諸侯が満足のいく地位を保持するためには国王に依存する必要がある、という関係を築いたのです。

財務府の新設と巡回裁判の定期化

ヘンリー1世の時代に、財務府(Exchequer)が新設され、巡回裁判が定期化されました。

財務府は、国王の収入を管理する部門です。英語で「エクスチェッカー」といいます。チェック柄のテーブルクロスを用いて勘定を行ったので、この名がついたと云われています。

以前から存在した部門の例:
宮廷財務室(chamber)…王の支出を管理。
尚書部(chancellor)…重要文書の起案作成を行う部。ラテン語の読み書きができる聖職者がこれを兼務。

裁判官が地方を巡回して行う裁判は以前からありましたが、ヘンリー1世はこれを定期化しました。

資金調達

ヘンリー1世の資金調達に一役買ったのが「憲章の発布」です。町に市壁を建設する権利や、地方税の徴収権を与える憲章を、ヘンリー1世は”販売”しました。

嫡男の事故死による王位継承問題

ヘンリー1世と正妃マチルダの間には、娘マチルダと息子ウィリアムが生まれました。もうひとり、リチャードという名の息子がいた可能性もありますが、幼くして亡くなっているので、ウィリアムが唯一の嫡男でした。

しかしウィリアムは、1120年の海難事故で亡くなってしまいます(White Ship)。このため王位継承問題が生じてしまいました。妃マチルダはすでに亡くなっていたので、ヘンリー1世はアデライザ・オブ・ルーヴァン(Aderiza of Louvain)を新しい妃として迎え、男児を望みましたが、この結婚で子供を授かることはありませんでした。

ヘンリー1世亡き後のアデライザは、 アランデル伯ウィリアム・ド・アルビーニー(1st Earl of Arundel)と再婚し、数人の子供をもうけている

ヘンリー1世は娘のマチルダに王位を継承できるよう努め、諸侯を説得して同意を得るのですが、ヘンリーの死後にマチルダが王位に就くことは叶いませんでした。マチルダを差し置いて王冠を手にしたのは、ヘンリー1世の甥(姉の息子)にあたるスティーブン(Stephen)でした。

スティーブンの治世は、マチルダとの王位継承戦争に明け暮れることになります。

ヘンリー1世の死

ヘンリー1世は1135年12月1日にノルマンディで亡くなりました。「医師の忠告に従わずにウナギの一種(Lamprey)を食べ過ぎたために体調を崩した」と、12世紀の歴史家(Henry of Huntingdon)が伝えています。

遺体はルーアンに安置され、そこからイングランドに運ばれて、レディング修道院(Reading Abbey)に埋葬されました。

この時代の特徴

修道院

1128年にフランスからシトー会が到着し、多くの立派な修道院が建ちました。この頃に建てられた修道院は、窓やドアや通路の上部が滑らかなアーチになっています。ロマネスク様式の一種で、ノルマンアーチ(Norman arch)とも呼ばれます。

※修道会…キリスト教の西方教会における信徒の組織。教皇庁の認可を受け、キリスト教精神でもって共同生活を行う。修道会の会員は修道者といわれる。修道会ごとに会則がある。なお、東方諸教会・正教会・聖公会・ルター派にも修道制度は存在するが、前二者の東方教会には修道制度は存在しない。ーWikipedia

宮廷で使われるのはフランス語

宮廷で使われていた言葉はフランス語です。イングランドを征服したノルマン家は、その本拠地がフランスにあり、一族や家臣はフランス語を話す人々だったからです。イングランドに封土を得たノルマン貴族もフランス語を話しました。

ヘンリー1世の曽孫にあたるジョン王の時代にノルマンディを失うことになり、そうなってからようやく、英語も使われ始める。

地図

ヘンリー1世時代のノルマン王家の領土

12世紀のノルマン王家(ヘンリー1世)の領土
出典 Wikimedia Commons

ウィンチェスター城

紀元70年頃にローマの大要塞が建てられられた場所です。1067年、ウィリアム征服王が、この跡地に「城」を築きました。以来100年以上にわたって、この城はノルマン系王室のイングランド政治の拠点となりました。

レディング修道院跡

ヘンリー1世の遺体が埋葬されたレディング修道院は、ヘンリー8世による16世紀の宗教改革期(ローマ教会からの離脱 / 英国国教会の設立)に解体され、現在は修道院跡が遺るのみです。リチャード3世の遺体を発見したチームが、ヘンリー1世の遺骨の場所を特定しようと試みているそうです。


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参考
Kings and Queens of England & Britain
Henry I of England
King Henry I (1100 – 1135)
William II and Henry I
A Really Useful Guide to Kings and Queens of England
List_of_English_monarchs
物語イギリスの歴史(上)

ウィリアム2世(William Rufus)
ウィリアム2世(William Rufus)
先王のウィリアム1世(征服王)には4人の息子がいました。上からロバート、リチャード、ウィリアム、ヘンリーです。長男ロバートはノルマンディ公爵領と爵位を継ぎ、次男.....
スティーブン(Stephen of Blois)
スティーブン(Stephen of Blois)
先王ヘンリー1世は、娘のマチルダを王位継承者に指名していましたが、甥のスティーブンはこれに従わず、マチルダに先んじて自らが戴冠しました。 スティーブンとマチルダ.....
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