スティーブン(Stephen of Blois)
       

先王ヘンリー1世は、娘のマチルダを王位継承者に指名していましたが、甥のスティーブンはこれに従わず、マチルダに先んじて自らが戴冠しました。

スティーブンとマチルダは従兄妹同士にあたり、両者の祖父はウィリアム征服王William the Conqueror )です。スティーブンは母方からこの血を継いでいます。

1139年にマチルダがイングランドに上陸し、王位を争いました。どちらの勝利ともつかない状態が何年も続き、国は無政府状態となって秩序を失いました。スティーブンは国王でありつづけましたが、1153年に、マチルダの息子ヘンリーに王位を継承することを約束して、翌年に亡くなりました。

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スティーブン(Stephen of Blois)

キング・スティーブンのイメージ画
出典 Wikimedia Commons
治世1135年12月22日-1154年10月25日(18年308日)
継承権ウィリアム1世の孫
指名または王位簒奪さんだつ
生没1096年:場所 Blois
1154年10月25日:場所 Dover Castle
家系ブロワ家(House of Blois
父母Stephen II of Blois & Adela of Normandy
結婚Matilda of Boulogne(1125年)
子供Eustace IV, Count of Boulogne
Marie I, Countess of Boulogne
William I, Count of Boulogne
Gervase, Abbot of Westminster (非嫡出)
Ralph (非嫡出)
Amalric (非嫡出)
埋葬Faversham Abbey, Kent, England
イングランド国王スティーブン

年表

1135スティーブンが戴冠
1136ノーフォーク伯( Earl of Norfolk )がスティーブンに反乱を起こして内戦が勃発、無政府時代( The Anarchy )に突入
1136ウェールズのオワイン・グウィネッド( Owain Gwynedd )が、クリグ・マウルの戦い( Crug Mawr )でイングランドに勝利
1138ヘンリー1世の非嫡出子であるグロスター伯ロバート( Robert )が、マチルダ側に就く
1138スコットランド国王ディビッド( David I of Scotland )が、姪にあたるマチルダの支援を受けてイングランドに侵攻するが、ノーザラートンで敗戦( Northallerton
1139マチルダがフランスを出発しイングランドに上陸
1141マチルダの軍勢がスティーブンを捕獲( Battle of Lincoln )し、マチルダが王位を主張
1141マチルダ側のグロスター伯ロバートが敵に捕らわれ、スティーブンの身柄と引き換えが成立
1145スティーブンがマチルダの軍勢を破る( Battle of Faringdon )
1148マチルダがイングランドを去る
1147マチルダの息子ヘンリー(のちの2世)がイングランドに侵攻するも資金が底をつく
1151マチルダの夫であるアンジュー伯ジョフロワが亡くなり、ヘンリーが伯位を継承
1153ヘンリーがイングランドに再上陸し、味方を集める
1153ヘンリーとスティーブンが終戦に合意( Treaty of Westminster ):スティーブンは国王として余生を全うし、死後はヘンリーに王位を継承する
1154スティーブン死去
イングランド国王スティーブンの治世の年表

おもなできごと

マチルダを差し置いてスティーブンが戴冠

先王ヘンリー1世にはウィリアムという名の唯一の嫡男がありましたが、海難事故で先立ってしまいました。このため、イングランドにおけるノルマン王家の男系は途絶えました。

ヘンリー1世は、甥のスティーブンを継承者とする方向で考えたこともあったようです。しかし最終的には娘のマチルダ(Matilda)を後継ぎに指名して、諸侯に忠誠を誓わせました。マチルダはアンジュー伯ジョフロワと再婚しており、ここに男児(のちのヘンリー2世)も生まれていました。

1135年にヘンリー1世が亡くなります。するとアングロノルマン諸侯の間でマチルダの即位に反対する動きが起こりました。これに乗じたスティーブンが、教会の高位聖職者を味方につけて王位に就きました。

イングランドとノルマンディの諸侯は「スティーブン支持派」と「マチルダ支持派」にわかれて衝突し、無政府時代(The Anarchy)へと突入します。

ヘンリー1世の娘マチルダの生い立ち

ヘンリー1世の娘マチルダ(1102 – 1167)は、幼くしてドイツに渡り、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世と結婚(1114)しました。しかし皇帝が先立ち、マチルダは若くして未亡人となります(1125)。

マチルダの弟ウィリアムは1120年に海難事故で亡くなっており、ノルマンディ家には後継ぎ問題が生じていました。父ヘンリーは、未亡人となったマチルダをノルマンディに呼び戻し、アンジュー伯ジョフロワとの再婚を手配しました。アンジュー伯と同盟してノルマンディの南の境界を守る狙いがありました。

父ヘンリー自身も再婚し男児を望みましたが、この結婚では子供に恵まれることはありませんでした。そこでヘンリーは、マチルダとその息子ヘンリーを後継者として指名し、諸侯に「マチルダに忠誠を尽くすこと」を誓わせてから亡くなりました。

王位争いに明け暮れた治世

スティーブンとマチルダの争いは19年におよぶ内戦となりました。あるとき、スティーブンが捕らわれの身となり、マチルダ軍の捕虜と引き換えに解放されました。一時はマチルダがロンドンを掌握しますが戴冠には至らず、大陸へ退くことになりました。

マチルダの脱出

内戦の間に、マチルダは2度とらわれの身となり、2度とも脱出に成功しています。包囲されたオックスフォード城からの脱出は有名で、ロープを伝って壁を越え、白いケープをまとって雪に紛れて逃げ去ったと伝えられています。(Role in the Anarchy and Barons War)

最終的に両者は妥協し、次のように決まりました:

  • スティーブンがイングランド国王として余生を全うする
  • スティーブンの死後はマチルダの息子ヘンリーに王位を継承する

地図

ウォリンフォード城跡

スティーブンとヘンリーが条約を結んだとされる場所です。

おまけ

カドファエル兄弟

Cadfael

1977年から1994年に書かれた小説を映像化したフィクションで、スティーブンの治世が舞台の物語です。主人公は、西イングランドの修道院にクラスウェールズ出身の僧侶。

原作(英語)はこちら▼


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参考
Kings and Queens of England & Britain
Stephen
Stephen and Maud
King Stephen (1135 – 1154)
A Really Useful Guide to Kings and Queens of England

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