ヘンリー2世(Henry Curtmantle)
       

フランスのアンジュー伯家に生まれてイングランド王になったヘンリー(2世)は、パワフルな王で、優秀な戦士でもありました。イングランドの裁判システムを強化したり、軍役代納金(scutage / 軍役に代えて貨幣を治める・税)の徴収額を上げるなどしました。フランスでも領土を拡大し「アンジュー帝国」とも呼ばれる広大な領地を治めました。

またヘンリー2世は、カンタベリー大司教トマス・ベケットとの対立と、その殺害にかかる事件でよく知られています。

※アンジュー帝国:イングランドからピレネー山脈まで。ただし、ここでいう「帝国」は「統一国家」を意味しない。10以上にわたるそれぞれの領国に異なる支配秩序・貨幣制度・習慣が存在し、巡回しながらの統治が必要だった。

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ヘンリー2世(Henry Curtmantle)

ヘンリー2世
出典 Wikimedia Commons
治世1154年12月19日-1189年7月6日(34年200日)
継承権ヘンリー1世の孫
ウォーリングフォード協定(Treaty of Wallingford)に基づく
生没1133年3月5日:場所Le Mans
1189年7月6日(56歳):場所Chinon
家系プランタジネット家/アンジュー伯家(Plantagenet/Angevin
父母 Geoffrey V of Anjou & Matilda
結婚Eleanor of Aquitaine(1152年)
子供William IX, Count of Poitiers
Henry the Young King
Matilda, Duchess of Saxony
Richard I, King of England
Geoffrey II, Duke of Brittany
Eleanor, Queen of Castile
Joan, Queen of Sicily
John, King of England
ほか非嫡出子
埋葬Fontevraud Abbey(フランス)
イングランド国王ヘンリー2世

年表

1154アンジュー伯家のヘンリー、21歳でイングランド王位を継承し、ヘンリー2世となる
1154ハドリアヌス4世がローマ教皇(1154-1159)となる:イングランド出身の教皇として初
1155ヘンリー2世、トマス・ベケットを尚書部長官(Chancellor of England)に任命
1155ハドリアヌス4世による教皇勅書( Laudabiliter )によって、ヘンリー2世に「アイルランド侵攻」の口実が与えられ、アイルランドの教会がローマ教会の管理下に置かれる
1162ヘンリー2世、トマス・ベケットをカンタベリー大司教に任命:教会改革を期待
1164ヘンリー2世が、教会裁判に制限を設け入る法( Constitutions of Clarendon )を布くが、トマス・ベケットが受け入れを拒否
1166クラレンドン勅令:世俗の法廷で犯罪者の最終判決を下す
1166アイルランド島内の諸王国の争いで、レンスター王(Diarmaid mac Murchadha)がヘンリー2世に支援を求める。

これに応じて送ったペンブローク伯(Richard de Clare)が、のちにレンスター王になる事態となり、危機を感じたヘンリー2世がアイルランドに侵攻し「上王 / 卿」の地位を創設する結果につながる。
1168ヘンリー2世、イングランド人にパリ留学を禁止:パリにいた学者がオックスフォードに移り、大学を創設(University of Oxford
1170教皇アレクサンデル3世( Pope Alexander III )が、ヘンリー2世にトマス・ベケットとの和解を強制:一時和解するが、トマス・ベケットが クラレンドン 法を拒んで再び対立
117012月29日、カンタベリー大聖堂にて、ヘンリー2世の4人の騎士によってトマス・ベケットが殺害される
1171ヘンリー2世、アイルランドに侵攻し、レンスター王をはじめアイルランド諸国の王に、イングランド王への忠誠を誓わせる( Lord of Ireland
1171ヘンリー2世、アイルランドのカシェル(Cashel)にてアイルランドの聖職者にローマ教会への服従を認めさせる
1173トマス・ベケットが列聖される
1173王妃アキテーヌ女公エレノアと息子たちが、ヘンリー2世に反乱を起こすが不成功
1174ヘンリー2世の息子たち(ヘンリー、リチャード、ジェフリー)が父王にふたたび反乱を起こし、不成功に終わる
1176ヘンリー2世、イングランドを6つのカウンティに分けて裁判システムの骨組みを作る
1185地震によってリンカーン大聖堂が崩壊
1189ヘンリー2世、フランスのアンジューで死去
イングランド国王ヘンリー2世の治世の年表

おもなできごと

出自とあらまし

ヘンリー(2世)は、ヘンリー1世の娘マチルダとフランスのアンジュー伯ジョフロワ5世の間に生まれました。イングランド国王スティーブンから王位を継承して、1154年に国王となります。

He took as his emblem the “sprig of broom” of the House of Anjou, which in the French of the day became “plant a genet”, or Plantagenet.

ヘンリー2世は、優れた統治者ですが、短気な面もあったと考えられています。ヘンリー2世は、諸侯の権力拡大の制御には成功しますが、教会との裁判権争いは、1170年の「大司教トマス・ベケット殺害事件」によって、断念せざるを得なくなりました。

※先王スティーブンの治世は、マチルダとの王位争いに明け暮れ、国は無政府状態となっていた。この間に、諸侯が違法に城を建てて権力を拡大。ヘンリー2世の治世は、このような城を取り締まり、諸侯の権力の抑制に乗り出すかとから始まった。

イングランドによるアイルランド征服は、ヘンリー2世の時代に始まりました。ヘンリー2世は、併せてスコットランド卿およびアイルランド卿( lord of Scotland, Ireland )を名乗りました。1171年、ヘンリー2世はアイルランドに招かれ、レンスター王から忠誠を受けます。

ヘンリー2世の息子たち(ヘンリー、リチャード、ジェフリー)は父王に反乱を企て、とくに1173-74年に大きく荒れました。しかし、いずれも鎮圧には成功しました。

長男は父王より先に亡くなったため、次男のリチャード(1世・獅子王)が、ヘンリー2世の跡を継ぎました。

アンジュー帝国:ブリテン島~フランスにまたがる広大な領土

ヘンリー2世は、イングランド国王であり、アイルランド卿およびスコットランド卿であると同時に、フランスのアンジュー伯であり、またブリタニーとポワトゥー、ノルマンディ、メーヌ、ガスコーニュ( Anjou, Brittany, Poitou, Normandy, Maine, Gascony )の伯領も手中に収めました。1152年にアキテーヌ公女エレノアと結婚したヘンリー2世は、広大なアキテーヌ公領も手に入れていました。

このようにフランスに多くの領土を得ていたヘンリー2世なので、その治世の半分以上を大陸で過ごすことになりました。このため、国王が不在でも機能する統治システムをイングランドに築く必要がありました。ヘンリー2世は、秩序が建て直し新しい統治システムを導入しました。

トマス・ベケット殺害事件

期待に反して寝返ったトマス・ベケット

ヘンリー2世のアドバイザーであり友人でもあったトマス・ベケット(Thomas Becket)は、1162年、国王に説得されてカンタベリー大司教の座に就きました。教会の裁判権を抑制する目的で、国王の味方として送られたはずでしたが、聖職者となったトマス・ベケットは期待に反して教会を擁護する側につきました。

※在俗聖職者を裁くのは国か教会か。裁判権を巡っての国王と教会の対立。ヘンリー2世は、国王権力下にある世俗法によって最終判決を下したい考え。

当時の教会裁判(神判)

当時の教会では次のような裁判が行われていました:被告人は、たとえば熱された鉄の棒を拾い上げたり、または熱湯の中から石を掴み出す試練を与えられます。そして火傷を負った被告人の手が、もし3日以内に治癒すれば、それは神が被告人を擁護していると見なされて無罪となりました。治癒しなかった場合は有罪となりました。

4人の騎士によるトマス・ベケットの暗殺

ヘンリー2世とトマス・ベケットの関係は、非常に険悪になりました。この結果、1170年に、国王の騎士4人によってトマス・ベケットが殺害される事件が起こります。

きっかけはトマス・ベケットが「国王に協力的だった聖職者」を破門したことでした。この報を聞いたヘンリー2世は激昂し声を荒げます。この様子を見ていた国王付きの4人の騎士が、おそらくはヘンリー2世に気に入られたいがために無断で、行動を起こしました。4人の騎士はカンタベリー大聖堂に向かい、主祭壇の前で、トマス・ベケットを殺害しました。

地に落ちた名声

この事件は「ヘンリー2世による大司教殺害」として世間に知られ、築き上げてきた名声は地に落ち、政治的にも非常に不利な結果を招きました。ヘンリー2世は教皇から課された懲罰に従い、麻布をまとってカンタベリー大聖堂まで歩き、僧侶からの鞭打ちを受けました。本来の問題であった教会との裁判権争いについても、譲らざるを得ない結果となりました。

地図

アンジュー帝国

1189年のアンジュー家(プランタジネット家)の領土
出典 Wikimedia Commons

カンタベリー大聖堂

トマス・ベケットが暗殺された大聖堂です。1170年12月29日、ヘンリー2世の騎士によって、北西の翼廊で殺害されました。

トマス・ベケットの所業に業を煮やしたヘンリー2世が、” Will no one rid me of this turbulent priest? (この忌々しい僧侶を始末できんのか)”と叫び、これを聞いた4人の騎士が言葉を文字通りに受け取って、ベケットを殺害したといわれています。

ベケットの死は殉教として扱われ、カンタベリー大聖堂は巡礼地のひとつとなり、巡礼者からの収益によって、大聖堂は拡張されました。


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参考
Kings and Queens of England & Britain
Henry_II_of_England
Henry II and Thomas a Becket
King Henry II (1154 – 1189)
A Really Useful Guide to Kings and Queens of England

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