紀元40年頃~410年頃まで、ブリテン島の南部はローマ帝国の属州だったので、この時代を「ローマン・ブリティッシュ時代」などと呼びます。ローマ人は、支配下に置いた地域と周辺諸島を「ブリタンニア」と呼びました。おなじころ、現在のアイルランドにあたる地域はゲール人が侵略して定住していました。
ローマ帝国の支配は、現在のスコットランドにあたる地域には及びませんでした。ローマは侵攻を試みますが謎の民族ピクト人の反撃に遭い、ローマ第九軍団は消息を断ちます。
ブリテン島南部で約400年続いたローマ帝国の支配ですが、結局のところローマ人は彼ら同士で仲たがいします。属州ブリタンニア最後の総督は「皇帝」を自称し市民軍を率いてブリタンニアを離れ、ほどなくガリアで死亡しました。
その後、ブリタンニアはゲルマン系のアングロ人・サクソン人から侵攻を受け、ローマに助けを求めますが援軍は来ませんでした。ローマ自体が侵略者によって焼かれており、それどころではなかったのです。
扉絵:Hadrian’s wall just east of Cawfields quarry, Northumberland in October 2005. (C)
1世紀
- 43年~ ローマ皇帝クラウディスの指揮によるブリテン島侵攻でブリテン島南東部が属州ブリタンニアとなる
- 60年 現ノーフォーク付近でブーディカが蜂起
- 70年~90年 ローマ軍は現スコットランドにあたる地域への侵攻を試みる
図:Campaigns in the Roman Conquest of Britain, 43 — 60; and showing Roman military organisation in 68 (C)
関連記事 [詳しく]1世紀のイギリス
抜粋文:紀元43年にローマ軍がブリタンニア侵攻に成功して以来、1世紀のイギリスは徐々にローマ帝国の支配下に置かれました。ただしブリテン諸島(現イギリスを構成する主要な島.....
2世紀
- ローマ軍は北部のピクト人を破ることができず、現スコットランドと現イングランドの境界近くに壁を建設し力の及ぶ範囲を示した(ハドリアヌスの壁)
- 属州ブリタンニアを上下2州に分割
図:Relative degrees of Romanisation, based on archaeology. Romanisation was greatest in the southeast, extending west and north in lesser degrees. West of a line from the Humber to the Severn, and including Cornwall and Devon, Roman acculturation was minimal or non-existent. (C)
関連記事 [詳しく]2世紀のイギリス
抜粋文:2世紀のイギリス南部は、ローマ帝国の支配下にあり属州ブリタンニアと呼ばれていました。おおよそ現在のスコットランドに相当する北部は征服されず、昔ながらの部族が暮ら.....
3世紀
- 先住の人々はローマに倣ってラテン語を学び、キリスト教も浸透する
- カラウシウスの反乱が起こりブリタンニアを4州に分割
図:The Great Bath, Roman Baths, originally 1st-3rd century AD, with late 19th century superstructure by John McKean Brydon. (C)
4世紀
- 西部からのアイルランド人、東部からのサクソン人の攻撃がはじまる
- ローマ帝国が東西に分裂(当時の意識としてはあくまでもひとつのローマ帝国)
5世紀
- 407年 コンスタンティヌス3世がローマ皇帝を自称して残軍を率いてブリタンニアを離れ、ローマの支配は終焉
- ブリタンニアでは古来からのブリトン人の部族制が復活 部族国家が乱立
- ゲルマン系アングロ・サクソン人の侵入
- (アングロとサクソンに抵抗する円卓の騎士の物語はこの時代がモデル)