[詳しく]3世紀のイギリス
       

3世紀のイギリスは、おおよそ現イングランドに相当する地域がローマ帝国の支配下にありブリタンニアと呼ばれていました。ローマ帝国は外敵からの攻撃や内乱などの影響で不安定な状況が続きました。

3世紀のイギリスの主な出来事は次のとおりです。

  • ブリタンニアが2州に分けられる
  • ピクト人が記録にあらわれる
  • ブリタンニアがガリア帝国の一部となる
  • ガリア帝国の崩壊でブリタンニアはローマに再吸収される
  • カラウジウスらによるブリタンニア占拠
  • カラウジウスの暗殺および後継者の敗戦でブリタンニアはローマに再吸収される
  • ブリタンニアが4つの州に分けられる

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抜粋文:目次 1. 先史時代2. ローマ時代(43-410)3. アングロサクソン時代(410-1066)4. ノルマン朝(1066-1154)5. プランタジネット朝.....

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209年の夏:皇帝セプティミウス・セウェルスがブリテン北部で戦争を起こす

ゲリラ戦を展開する北方部族にローマもお手上げ

ブリタンニア北部の国境線付近で北の部族との紛争が起きていました。この紛争が、皇帝セプティミウス・セウェルス( Septimius Severus )を今一度、カレドニア( Caledonian征服へと駆り立てました。しかしカレドニア人は会戦を避けてゲリラ戦を展開する戦略にでたため、ローマ軍は行き詰まり、決着のつかないまま紛争は長引きました。

ローマと北方部族のあいだで平和条約が結ばれたものの、セウェルスの軍が撤退するや否や、北方部族( Maeatae )は反乱を起こしました。

※カレドニア…現スコットランドにあたる地域に暮らしていた部族をローマ人は「カレドニア人」と総称した

211年の冬:ブリテンがふたつのローマ州に分かれる

197年頃から検討されていた州の分割

ブリテン島を完全征服することを視野に入れ、また行政を改善する目的で、皇帝セプティミウス・セウェルス( Septimius Severus )は197年頃から、ブリタンニア州をふたつの行政区に分割することを検討し始めました。

211年、セウェルスもしくは息子である新皇帝カラカラ( Caracalla )によって、ブリタンニア州の南北分割が実行されました。

南部が上ブリタンニア( Britannia Superior / Upper Britain )と呼ばれ、首都はロンドニウム( Londinium / London )に置かれました。北部は下ブリタンニア( Britannia Inferior / Lower Britain )と呼ばれ、首都はエボラクム( Eboracum / York )に置かれました。

上ブリタンニアと下ブリタンニア(260 AD)
出典 Wikimedia Commons

211/212年の冬:旧皇帝セプティミウス・セウェルスがヨーク( Eboracum )で死去

悲願のカレドニア征服成らず、意志を継ぐ者もなかった

2年に及ぶ挑戦もむなしく、セプティミウス・セウェルス( Septimius Severus )は、ブリテン島北部に暮らすカレドニア人を征服することができないままでした。セウェルスがエボラクム( Eboracum / York )で亡くなったのは211年~212年にかけての冬です。カレドニア征服に向けて、新たな攻撃の計画がありました。

セウェルスの意志はふたりの息子カラカラ( Caracalla )とゲタ( Geta )に委ねられましたが、ふたりがカレドニア征服のための遠征を続けることはありませんでした。

250年:「ピクト人」が記録に現れる

ローマの属州ブリタンニアを脅かす新たな敵たち

3世紀半ば、新たな敵がブリテン島を脅かすようになりました。

イベリア半島( Iberia )から渡来した可能性のある人々が、現アイルランドのウルスター( Ulster )や現スコットランドの西部に定着しました。なおローマ人はアイルランドをスコシア( Scotia )と呼んでいました。また現ドイツから渡来したサクソン人( Angles, Saxons )やジュート人( Jutes )も東から攻撃をしかけてきました。

この頃はじめて「ピクト人( Picts )」という言葉が記録に見られるようになります。現スコットランド北部に定着していた部族らを総称した呼称です。なぜこのように呼ばれたのか語源は不明ですが、ラテン語の「ペイントをほどこした人びと」を意味する言葉に由来しているとする説があります。

16世紀に描かれたピクト人のイメージ
出典 Wikimedia Commons

255年頃の夏:ロンドンの川岸に防壁の建設はじまる

水路からの奇襲に備える必要が生じたと考えられる

ロンドニウム( Londinium / London )は、3世紀のはじめ頃から防衛目的の市壁で囲われ始めていました。この工事は4世紀の半ばころに最終段階を迎え、テムズ川( River Thames )北岸に沿った市壁の建設が行われました。

このような市壁の建設は、この時代に陸と水路からの奇襲に備えた防壁が必要になる理由があったことを物語っています。ロンドニウムの市壁は、ブリテン各地で模倣されました。

現代のテムズ川岸の地図に当てはめた
ローマ時代のロンドニウム
(当時の河岸はやや内陸にあったことがわかる)
出典 Wikimedia Commons

259/260年頃の冬:ポストムスがガリア帝国の皇帝を名乗る

ブリタンニアとガリアとスペインを含むガリア帝国

バタビア( Batavi )出身のローマの司令官ポストムス( Postumus )は、ローマ帝国西部を外敵( barbarian )の侵入から守っており、自身を皇帝であると宣言しました。ポストムスは、ブリタンニアとガリア( Gaul )とスペイン( Spain )において「ガリア帝国の皇帝」として認知されました。いっぽうで本物の皇帝ガッリエヌス( Gallienus )はその他の地域において権力を維持しました。

しかしポストムスは自身の軍団兵によって268年に殺害されます。ただし「ガリア帝国」自体は274年まで存続しました。

271年の様子
緑:ガリア帝国
赤:ローマ帝国
黄:パルミラ帝国
出典 Wikimedia Commons

274年:ガリア帝国がローマ帝国に再吸収される

ガリア帝国第三代皇帝テトリクスがローマに降伏

259年にポストムス( Postumus )が「ガリア帝国の皇帝」を宣言して以来、ブリタンニアとガリアとスペインはローマ帝国から離脱した独立帝国( Gallic Empire )となっていました。しかし15年後、ガリア帝国第3代目の皇帝テトリクス( Tetricus )は「シャロンの戦い( Battle of Châlons )」に敗戦し、ローマ皇帝アウレリアン( Aurelian )に降伏しました。テトリクスは属州を明け渡し、ガリア帝国は消滅します。

286年の夏:カラウジウスが皇帝を名乗りブリテンを掌握

ブリタンニア~ガリア地方で強力な支持基盤を作ったカラウジウス

ブリタンニア艦隊( Classis Britannica )の提督カラウジウス( Carausius )は、ローマ皇帝マクシミアヌス( Maximian )から汚職の容疑で告発された後、ブリタンニアとガリア地方を掌握しました。

カラウジウスはブリタンニア~ガリア地方で強力な支持を受けていたとみられ、効率的な管理形態を確立していました。正当な手段で、自身を象徴する貨幣を鋳造したいと考えており、皇帝ディオクレティアヌスおよびマクシミアヌスに打診しますが、拒否されました。

286年、カラウジウスが:
黄=掌握していた領域
橙=要求した領域
出典 Wikimedia Commons

293年の秋:カラウジウスが暗殺される

カラウジウスを暗殺したアレクトゥスがブリタンニアを掌握

カラウジウス( Carausius )は、ローマ帝国に忠実な軍団と戦い破れました。ブリタンニアを拠点としていたカラウジウスはその後、自身の財務係アレクトゥス( Allectus )によって暗殺されます(293年)。

アレクトゥスは、ブリテン島の海岸に防衛設備の建設( Saxon shore forts )を始めた人物です。アレクトゥは自身の権威を強化する目的で、ロンドニウム( Londonium )に宮殿の建設も命じました。

296年の夏:ローマ皇帝コンスタンティウスがブリテンを取り戻す

ローマ帝国に再吸収されたブリタンニア、4州に分割される

当時のローマはテトラルキア( Tetrarchy )と呼ばれる政治体制で、4人の皇帝による分担統治がなされていました。西部を治めていた上位の皇帝マクシミアヌス( Maximian )は、下位の皇帝コンスタンティウス・クロルス( Constantius Chlorus )をブリテンに送りました。コンスタンティウスは、ブリテンを掌握していたアレクトゥス( Allectus )をシルチェスター付近( Silchester )で討ち、ローマ帝国の主権を回復しました。

テトラルキアの方針に則ってコンスタンティウスは、ブリテンを4つの領域に分割しました:

おおよその位置(410年)
黄:マキシマ・カエサリエンシス
青:ブリタニア・プリマ
赤:フラビア・カエサリエンシス
緑:ブリタニア・セクンダ
出典 Wikimedia Commons

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参考文献

Roman Britain
last edited on 6 February 2023, at 18:51 (UTC)
Roman Britain
BBC © 2014
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