[詳しく]4世紀のイギリス
       

4世紀のイギリスは、現イングランドに相当する南部がローマ帝国の支配下にあり、ブリタンニアと呼ばれていました。現スコットランドに相当する北部にはローマ帝国の支配は及んでおらず、昔ながらの部族が暮らし、また他の地域から渡来したとみられる部族も定着したようです。

4世紀はローマ帝国が徐々に衰退をはじめる時期です。外敵からの攻撃の影響も大きく、混乱状況が続いていました。

4世紀半ば、ローマ帝国はキリスト教を承認します。この影響で多くの教会が建設されました。

4世紀のイギリスの主な出来事は次のとおりです。

  • ローマ皇帝によるミラノ勅令がキリスト教が承認される
  • ブリタンニア周囲の外敵による一斉攻撃「大いなる陰謀」
  • ブリタンニア州副総督が皇帝を名乗り、既存の皇帝らを倒して地位を強化するも5年で討たれる
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306年の秋:コンスタンティウスが皇帝として歓迎される

亡きローマ皇帝コンスタンティウスの幼い息子

ローマ皇帝コンスタンティウス( Constantius )はブリテン島北部への遠征中に亡くなりました。エボラクム( Eboracum / York )にいたコンスタンティウスの兵士たちは、彼の幼い息子コンスタンティヌス( Constantine )を次期皇帝として認め歓迎しました。

ローマ帝国の内戦を経て312年、コンスタンティヌスは競合マクセンティウス( Maxentius )を「ミルビアン橋の戦い( Battle of Milvian Bridge )」で打ち負かしました。

コンスタンティヌスはローマ西部を治める唯一の皇帝となり、四皇帝制のテトラルキア( Tetrarchy )を廃止しました。

16世紀に描かれた「ミルビアン橋の戦い」のイメージ
出典 Wikimedia Commons

314年の夏:ミラノ勅令

ローマ帝国でキリスト教が承認される

皇帝コンスタンティヌスが発した「ミラノ勅令( Edict of Milan )」によって、ローマでキリスト教( Christianity )が合法化されました。314年は、ローマ帝国およびローマ皇帝がクリスチャンになった年と見なされることもあります。しかし実際のところは、皇帝コンスタンティヌスは、キリスト教とも異教ともつかない曖昧な立場にとどまっていたようです。またキリスト教の洗礼を受けたのは、死の床でのことでした。

ブリテン島におけるキリスト教については、詳しいことがわかっていません。おそらくは3世紀はじめ頃にスコットランドに伝わっており、イングランドとウェールズには4世紀はじめに伝わったものと考えられています。アイルランドには南部から浸透し、それは5世紀はじめ頃でした。

皇帝コンスタンティヌス
出典 Wikimedia Commons

343 / 344年の冬:コンスタンス1世がブリテンに立ち寄る

ブリタンニアで軍事的な緊急事態か

ローマ皇帝コンスタンス1世( Constans )が343年に、ブリテン島に立ち寄っています。危険な冬の渡海であったことに加え、非常に短い滞在だったことから、なにか軍事的な緊急事態に応えての訪問だったとみられています。

ローマ皇帝コンスタンス1世
出典 Wikimedia Commons

353年頃の秋:パウルス・カテナがブリテンに派遣される

マグネンティウスの支持者らを取り調べて追放

帝位簒奪者マグネンティウス( Magnentiusを討ったのち、皇帝コンスタンティウス2世( Constantius II )はパウルス・カテナ( Paul ‘the Chain’ )をブリテンに送り、マグネンティウスの支持者らを取り調べ、ブリテンから追放しました。なおブリタンニア副総督フラビウス・マルティヌス( Martinus )は、取り調べを受けるまえに自害しました。

※マグネンティウス…マグネンティウスはアムビアニの出身で、ブルトン人の父とフランク人の母との間に生まれたゲルマン人である。350年1月18日、コンスタンス1世に対して反乱を起こしたローマ軍団によって皇帝として宣言された。マグネンティウスはコンスタンス1世を捕らえて殺害している。コンスタンス1世の共同皇帝コンスタンティウス2世と対立し、351年にコンスタンティウス軍とムルサの戦いで敗れ、イタリアへ敗走し、353年8月11日リヨンで自殺した。

367年の夏:外敵( Barbarian )がローマ属州ブリテンを攻撃

北・西・東からの同時攻撃「大いなる陰謀」

スコットランドからピクト人( Picts )、西の諸島からアタコッティ( Attacotti )、アイルランドからスコッツ( Scots )、ドイツ方面からフランク人( Franks )とアングロサクソン人( Anglo Saxons )が、ほぼ同時に、ブリテン島に攻撃をしかけました。

ブリタンニアの国境防衛は圧倒され、1人のローマ将軍が殺害され、その他は打ち負かされて、外敵の侵入と略奪を許すことになりました。この一連のできごとは「大いなる陰謀( Great Conspiracy )」と呼ばれることもあります。

16世紀に描かれたピクト人のイメージ
出典 Wikimedia Commons

369年の夏:テオドシウスが外敵( barbarians )を撃退しブリテンを守る

南部の防衛線は回復するも、ハドリアヌスの壁以北に新たな部族国家あらわる

緊急時の軍事司令官として任を受けたテオドシウス( Theodosius )は、大規模な外敵( barbarian )の侵攻からブリタンニア州を守り主権を取り戻すために、急ぎブリテン島へやってきました。テオドシウスはブリテン島南部からの侵入者を追い払って州南部の防衛線を復活させました。しかし島の北部への侵入は続き、5世紀までにハドリアヌスの壁( Hadrian’s Wall )より北側に3つの王国が現れました:

  • ストラスクライド( Strathclyde )…現スコットランド南部
  • ゴドディン( Gododdin )…現ロージアン( Lothian
  • ギャロウェイ( Galloway

ローマはもはや、ブリテン島北部を征服する長年の野望をすっかり諦めました。

ローマ時代末期のブリテン島
出典 Wikimedia Commons

383年頃の夏:ブリテンの軍がマグヌス・マクシムスを皇帝として支持

ブリタンニア州の副総督が皇帝位奪取の野望を抱く

ブリタンニア州の副総督( vicarius )だったとみられるマグヌス・マクシム( Magnus Maximus )が、自軍の支持を得てローマ皇帝を名乗り、ガリア地方に遠征しました。ガリア地方を治めていた皇帝グラティアヌス( Gratian )を殺害し、つづいてイリリクム( Illyricum )、アフリカ、イタリア地方を治めていた皇帝ウァレンティニアヌス2世( Valentinian II )をローマから追い出すことで、帝国の西側における自身の地位を強化しました。

マグヌス・マクシムは、その権力を5年間維持しましたが、テオドシウス1世( Theodosius I )に破れて処刑されました。

マグヌス・マクシムスのコイン
出典 Wikimedia Commons

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参考文献

List of Roman emperors
last edited on 4 February 2023, at 14:45 (UTC)
Roman Britain
BBC © 2014
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