本土の変遷
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抜粋文:ローマ人がブリテン諸島から撤退してからのち数百年、現在のスコットランドに相当する地域にはおおきく4つのグループが存在しました。東にピクト人の王国、西にゲール語族.....
798年:最初の襲撃
現存する少ない史料をひも解いたかぎりでは、バイキングによるスコットランドへの最初の襲撃は「794年のアイオナ(Iona)襲撃」だと考えられるそうです。ノーザンブリア王国のリンディスファーン修道院(Lindisfarne)が襲撃された翌年にあたります。
839年:ピクト人の王国フォトリウの陥落
839年、大きな北欧の船がテイ川(River Tay)とアーン川(River Earn)を経由して、ピクト人の王国フォルトリウ(Fortriu)の中心に達します。国王 Eogán(Eogán mac Óengusa)とその兄弟 Bran が倒されました。この戦いには、ダルリアダ(Dál Riata)※の王と考えられている Áed(Áed mac Boanta)も参戦していたとみられ、他のピクト人らとともに命をおとしました。
ピクト人の王国フォルトリウは、オイングス1世(Óengus mac Fergusa)の時代から100年以上にわたって存続していた王国でした。バイキングの襲撃によって崩れ落ち、あわせてブリテン島北部(現スコットランド)におけるピクト人の優勢も、ここに終わりを告げることとなります。
なお、この混乱のあとに、スコットランド王国(843年 -)の祖とされるケネス1世(Kenneth MacAlpin)が台頭します。
※ダルリアダ王国…現スコットランドに相当する地域の西に存在したスコット人の王国。

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870年:ブリトン人の砦の陥落とストラスクライドの建設
870年、クライド湾(Firth of Clyde)の周囲にあったブリトン人の居住地(Hen Ogledd)がバイキングの襲撃を受けました。Alt Clut と呼ばれる要塞がバイキング王アムライーブ(Amlaíb)とオマール(Ímar)に包囲されます。4ヵ月の籠城に耐えたものの、水の補給ができず、ついに陥落しました。
このバイキングは多くのブリトン人、ピクト人、アングロ人を捕虜として、彼らの拠点アイルランドに連れ去ったと記録されています。捕らわれた人々のなかには王族も含まれていたと考えられています。
要塞の陥落は、この地域の歴史の分岐点となりました。のちに建て直された王国は、クライド川の上流約20kmの地点にその中心地を移します。現在のグラスゴー(Glasgow)のちかくです。新しい王国はストラスクライドとして知られ、主要な国家のひとつとして後150年にわたって存続しました。

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843年/900年~:アルバ王国のはじまりとスコットランド王国への発展
現在のローランド地方(Scottish Lowlands)を構成する地域の大部分は、かつてアングロサクソン人の王国ノーザンブリアの一部でした。しかしバイキングに征服され、この地域をアングロサクソン人が取り戻すことはありませんでした。
バイキングによる襲撃、占領、征服、入植は、ブリテン島北部に割拠していたかつての敵同士を同盟させました。続く300年の間に、ゲール語族、ピクト人、ブリトン人、そしてアングロ人の諸王国が統一され、アルバ王国(Kingdom of Alba)が始まり最終的にスコットランド王国として発展してゆきます。

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諸島の支配者
シェトランド、オークニー、ヘブリディーズ、マン島など
9世紀のなかごろには、ノース人(北欧人)がシェトランド(Shetland)やオークニー(Orkney)、ヘブリディーズ(Hebrides)やマン島(Isle of Man)、そして本島の一部に入植していました。いくらかの入植者は、先住のゲール語族との結婚などを通じてノースゲール(Norse-Gaels)となりました。
これらの地域は、地元のエール(Jarls)によって治められました。Jarls とはそもそもは、船や船隊のキャプテンを指した北欧の言葉だったようです。入植した彼らは覇権を広げようとしました。
875年:ノルウェー王による支配
875年、ノルウェー王のハーラル1世(King Harald Fairhair)が船隊を率いてスコットランドにやってきました。台頭したハーラル1世によるノルウェー統一に反対する人々が、この諸島に逃れてきたからです。
ハーラル1世の軍団は、先住民の土地を襲撃するだけでなく、ノルウェー人の入植地も攻撃しました。船隊を組織して反乱勢を討伐し、その過程で、各地で独立していた Jarls※ を支配下におくようになりました。
Jarls… 北欧においては、11世紀末に至るまで、jarls と kings に大きな差異はなかった。
このようにハーラル1世の支配域は、ノルウェーのみならずオークニーやシェトランドの諸島、マン島、そしてスコットランドの一部にも及ぶことになりました。
反乱勢のおおくは、最終的にアイスランド(Iceland)に逃れました。
876年:サドリーズの統治者ケチル
876年、マン島のノースゲール人が、ハーラル1世に対する反乱をおこしました。これを鎮圧するためにケチル・フラットノーズ(Ketil Flatnose)の率いる船隊が諸島に送られます。ケチルは鎮圧に成功し、ハーラル1世の家臣として、諸島(Sudreys)※の統治者となりました。
※サドリーズ(Sudreys)…マン島 + クライド島 + インナーヘブリディーズ + アウターヘブリディーズ
ケチルはサドリーズの「王」を宣言するようになりますが、最終的にはお尋ね者となり、その首に懸賞金がかけられるのを恐れて、アイスランドに亡命しました。
ケチルの孫息子にあたるトルスティン(Thorstein the Red)と、オークニー伯爵シグルド(Sigurd the Mighty)はスコットランドに侵攻し、戦いで命を落とすまでの生涯、王国の半分近くから服従を示す貢物を受け取りました。

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12世紀:インナーヘブリディーズの分離
諸島の支配者は、半独立の状態でした。
1098年、ノルウェー王マグナス(Magnus Barelegs)は、スコットランド王のエドガー(Edgar of Scotland)と条約を結びました。諸島の支配権はノルウェーがもち、本島はスコットランドの領域とするというものです。しかし諸島とマン島がノルウェー王の支配下にあるというのは、ほぼ名目上にすぎず、実態には即しませんでした。
1156年、諸島のなかのインナーヘブリディーズが分離します。ゲール語系の人物サマーレッド(Somerled)がこの地域に影響力を及ぼすようになり、彼は「ヘブリディーズ王」として振る舞いはじめたのです。この”王国”は、のちにスコットランド貴族のひとつ「諸島の領主(Lordship of the Isles)」※として、サマーレッドの子孫によって継承されるようになります。

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東アバディーンシャー
東アバディーンシャー(Aberdeenshire)では、すくなくともクルーデンベイ(Cruden Bay)までバイキングが侵攻しました。
参考
Scotland
Scandinavian Scotland
Kingdom of the Isles

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