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ハロルド・ゴドウィンソン(Harold Godwinson)
治世 | 1066 (282日) |
継承権 | エドワード証聖王の遺言(ハロルドの主張) 賢人会議が選定 |
生没 | c.1022 – 1066 (44歳) |
家系 | ゴドウィン家(House of Godwin) |
父母 | Godwin of Wessex & Gytha Thorkelsdóttir |
結婚 | Edith Swannesha(ー) Ealdgyth(1064) |
子供 | Godwin / Edmund / Magnus / Gunhild / Gytha / Harold / Ulf |
埋葬 | Waltham Abbey, Essex もしくは Bosham, Sussex |
年表
1066 01 | ウェセックス伯ゴドウィン家のハロルドがイングランド国王になる |
1066 09 | スタンフォードブリッジの戦い:ハロルドの実弟トスティグが加担するノルウェー軍を討つ |
1066 10 | ヘイスティングスの戦い:南部から侵攻したノルマンディ公ウィリアムの軍に破れて、国王ハロルド死去 |
1066 12 | エドガー・アシリングが国王に選出されるが、ノルマンディ公ウィリアムが自身の王位を宣言 |
おもなできごと
ハロルドの戴冠と出自
1066年、子供のないエドワード証聖王が、死の間際に、ハロルドに王位継承を告げたとされています。賢人会議もハロルドを国王に選出しました。
ハロルドは、ゴドウィン家に生まれウェセックス伯爵位を継いでいた人物です。当時のイングランドの政治的な実権をにぎる最有力貴族でした。ハロルドの妹がエドワード証聖王に嫁いでいたので、エドワード証聖王とは義理の兄弟にあたります。
ハロルドは「アングロ・サクソン系最後の王」として位置づけられることが多いですが、母はデーン系です。またゴドウィン家は、クヌート大王の時代に抜擢されて台頭した家系です。
スタンフォードブリッジの戦い
同1066年、ノルウェー王ハラルドが自身の王位継承を主張してイングランド北部から侵攻しました。クヌート大王時代の北海帝国を根拠として、ノルウェー王にイングランド王位の継承権があるとする主張です。ハロルドの実弟トスティグ(Tostig)は、このノルウェー軍に加担していました。
ハロルドは「スタンフォードブリッジの戦い(Battle of Stamford Bridge)」で、ノルウェー軍を討ちました。
ヘイスティングスの戦い
間をおかず、つづいてフランスのノルマンディ公爵ウィリアムが自身のイングランド王位継承を主張してイングランド南部から侵攻しました。エドワード証聖王から王位継承を約束されていた、というのがウィリアムの主張です。
北部でノルウェー軍を討ったハロルドは、ウィリアムを討つべく南部へ引き返しますが「ヘイスティングスの戦い(Battle Of Hastings)」に破れ、命を落としました。44歳、治世は282日でした。
ここにアングロサクソン時代が幕を閉じ、ノルマン時代がはじまることになります。
無冠の王、エドガー・アシリング
「ヘイスティングスの戦い」 に破れたハロルドの死を受けて、イングランドの賢人会議は当時14歳のエドガー・アシリングを新国王に選出しました。しかし勝者のノルマンディ公ウィリアムが、ロンドンに入城して自身のイングランド王位継承を宣言すると、賢人会議とエドガーは譲位を余儀なくされました。エドガー・アシリングは戴冠することはありませんでした。仮に在位期間を数えたとしても、それは10月15日から12月10日までのおよそ2ヵ月のことでした。
エドガー・アシリングは、エドマンド2世の孫にあたります。父の亡命先のハンガリーで生まれました。エドワード証聖王に呼び戻された父に伴って、1057年、イングランドに来たときは4歳でした。1066年当時、エドガー・アシリングはウェセックス王家の血を引く唯一の男子でしたが、王位継承は成りませんでした。
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抜粋文:エドワード証聖王が亡くなり王位争奪戦の起こった1066年、エドガーが王位継承者として候補にあがりました。エドガーはアルフレド大王の直系にあたります。しかしおよそ.....
地図
参考
Kings and Queens of England & Britain
Harold II
Harold II