8世紀~12世紀のウェールズ

8世紀~12世紀のウェールズ

中世初期、ウェールズはひとつの王国ではなく、いくつもの王国が形成されている状態でした。最も強力な国王は「ブリテンの王(King of the Britons / のちに Tywysog Cymru = Prince of Wales)」として認められていました。支配域をイングランド西部にまで広げた国王もいました。しかしウェールズ全域を長きにわたって統一できた国家はありませんでした。

540年頃のブリテン島
540年頃のブリテン島
出典 Wikimedia Commons

ウェールズは頻繁に内輪揉めの内戦を繰り返していました。アングロ=サクソン時代のイングランドおよび、ノルマン征服以降のイングランドからの圧力も受けました。

※アングロ=サクソン時代…おおむね410年から1066年
※ノルマン征服以降…1066年以降

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オッファの壁(8世紀)

イングランドとウェールズの境界線

ポウイス(Powys)は、ウェールズの主な王国のなかで最も東に位置した王国です。かつてはイングランド西部にまで勢力を拡大していた王国ですが、アングロ=サクソン時代にマーシア王国(Mercia)によってその一部を失います

※失ったエリア…Cheshire、Shropshire、HerefordshirePengwern(現:ShrewsburyBaschurch の北部)

8世紀に「オッファの壁(Offa’s Dyke / Offa’s Dyke)」として知られる防塁が築かれました。おそらくは双方同意しての境界線(国境)だろうと考えられています。

赤線:オッファの壁
赤線:オッファの壁
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オッファの壁の断面図:ポウイスからの攻撃を防ぐ設計
オッファの壁の断面図:ポウイスからの攻撃を防ぐ設計
出典 Wikimedia Commons

  関連リンク   アングロサクソン七王国時代:王国の興亡(7世紀、8世紀、9世紀)

グヴィネズ王ロドリの覇権(9世紀)

ウェールズの大部分を支配下に置いた最初の王は、ロドリ・マウル(Rhodri Mawr =Rhodri The Great / c. 820–878?)です。グヴィネズ(Gwynedd)の王だったロドリは、ポウイスとケレディジョン(Ceredigion)まで支配域を拡大しました。

緑:ロドリの覇権域
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ロドリの死後、彼の支配域は息子たちに分割して相続されました。

ウェールズの相続の慣習

ウェールズでは、父の遺産は息子たちに等分に相続される慣習がありました。それも嫡子だけでなく、婚外子も同等にあつかわれました。このために領土がどんどん細分される状態にありました。しかし、こと「王国」となるとこの限りではなく、国王が継承者として選んだひとりに相続することもありました。ただしこれは、選ばれなかった候補者が、選ばれた候補者に戦いを挑むことにもつながりました。

南西の小王国の統一(10世紀)

デハイバース王国

ロドリの孫にあたるハイウェル・ダー(Hywel Dda / r. 942–948)は、父からデハイバース王国(Deheubarth / 920–1197)を継ぎました。デハイバースは、ウェールズ南西の複数の小王国を統合して築かれた王国です。

ハイウェルはさらに勢力圏をひろげて、942年にはウェールズの大部分を支配下におきました。

水色:ハイウェルの覇権域
父の代に制圧された地域(900-930)がデハイバース王国に相当
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ハイウェルの治世に、ウェールズの慣習がはじめて成文化され法としてまとめられました。「ハイウェルの法(Laws of Hywel)」とも呼ばれます。

ハイウェルはイングランドとの和平の維持にもつとめました。

949年にハイウェルが亡くなると、その息子たちはデハイバースの支配力は維持しましたが、グウィネズは失いました。グヴィネズ王には、かつての王家(House of Aberffraw)が復帰しました。

バイキングによる襲撃(10世紀)

ウェールズはバイキングによる襲撃にもさらされていました。950年から1000年にかけては、とくにデーン人の侵攻に苦しみました。ブリュット・ティウィソギオン年代記(Brut y Tywysogion)には次のような記録があるそうです:

987年にバイキングの王ゴッドフリー・ハロルドソン(Godfrey Haroldson)がアングルシー島(Anglesey)から2000人の捕虜を連れ去り、グヴィネズの王マレディズ・アブ・オウェイン(Maredudd ab Owain)は彼の民をとりもどすために多額の身代金を払った。

Brut y Tywysogion

グリフィズによるウェールズの統一(11世紀)

グリフィズ・アプ・リウェリン(Gruffydd ap Llywelyn / c. 1010-1063)は、ウェールズを統一することができた王です。グヴィネズの王で、1057年にウェールズ全域の支配者となり、境界付近にあったイングランド王国の一部をも併合しました。

緑:グリフィズ・アプ・リウェリンの覇権域
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しかしグリフィズは、1063年にハロルド・ゴッドウィンソン(Harold Godwinsonとの戦いに敗れて殺されてしまいます。

※ハロルド・ゴッドウィンソン…アングル系のウェセックス伯。クヌート大王時代に台頭した家系。1066年に戴冠しノルマン公ウィリアムに破れて命を落とす。

グリフィズは内戦を起こすことなくウェールズを統治した王でした。しかし彼の死後は、彼が統一した領域はふたたび従来の諸王国へと戻ってしまうのです。

ノルマン人の侵攻(11世紀)

北部:グヴィネズ王国&ポウイス王国

イングランドがノルマン人による征服を受けた1066年、ウェールズでもっとも強力だった支配者は、ブレジン・アプ・シンフィン(Bleddyn ap Cynfyn)でした。ブレジンは、グウィネズおよびポウイスの王でした。

ブレジン・アプ・シンフィンが1075年に亡くなると、内戦が勃発しました。これはイングランドを征服したノルマン人に恰好のチャンスを与えることになりました。

1081年、グリフィズ・アプ・サイナン(Gruffudd ap Cynan)はミニッド・カーンの戦い(Battle of Mynydd Carnに勝利してグヴィネズの王位を獲得しました。しかし誘いをうけて、ノルマン系イングランド人のチェスター伯(Hugh, Earl of Chester)およびシュルーズベリー伯(Hugh, Earl of Shrewsbury)らとの会合に出向いた際に、拘束され投獄されています。

南部:グヴェント王国、デハイバース王国、その他の王国

グウェント王国(Gwent)は、1070年よりも以前に、ノルマン人のウィリアム・フィッツ・オズバーン(William Fitz Osbern)に制圧されていました。

デハイバース王国は、1074年にシュルーズベリー伯爵(Earl of Shrewsbury)の軍の攻撃をうけました。ウィリアム征服王はダヴェッド(Dyfed)まで侵攻しました。ウィリアム征服王は1077年にセイント・デイビッド(St David’s / St David’s)を訪れています。

現在のセイント・デイビッド(St David’s / St David’s
当初の大聖堂は1087年にバイキングによって焼き払われ、ノルマン人が再建
1077年にウィリアム征服王、1171年にヘンリー2世、1284年にエドワード1世が訪れている
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ウィリアム征服王は、1081年からカーディフ(Cardiff / Cardiff)に要塞を建てはじめ、貨幣鋳造所も設けました。

ノルマン人が築いたキープ
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カーディフ城

1081年、ウィリアム征服王は、ローマ時代に築かれた要塞壁のなかに城のキープ(keep)の建設をはじめました。この時以来、カーディフ城は市の中心となりました。

町は城の周囲に発展し、主にイングランドからの移住者が定着しました。中世のカーディフの人口は1500~2000人でした(当時のウェールズの町の人口としては標準的)。

カーディフ城はビクトリア朝時代に大幅な増改築がなされました。しかし、ローマ時代の壁は残っており見た目にも明らかです。

Cardiff#Norman_occupation_and_Middle_Ages

1093年にはデハイバース国王のリス・アプ・テューダー(Rhys ap Tewdwrがブラヘイニョグ(Brycheiniog)で殺害され、王国はノルマン人の領主たちによって分割されました。

ここに、ノルマン人によるウェールズの征服も完結したかに見えました。

1093年のウェールズの地図
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ウェールズの反乱と領土の回復(12世紀)

グヴィネズ国王とデハイバース国王が同盟ノルマン人に大勝利

1094年、ノルマン人の支配に対してウェールズ人が反乱を起こします。徐々に反乱の領域を拡大して、土地を取り戻しました。ついにグラッフッド・アプ・サイナン(Gruffudd ap Cynan)が、グヴィネズに強力な王国を再建するに至ります。

捕らわれのグラッフッド・アプ・サイナンがチェスターから脱出するシーン(1900年の画)
出典 Wikimedia Commons

グラッフッドの息子オワイン・グウィネズ(Owain Gwynedd)は、デハイバース王国のグリフィズ・アプ・リス(Gruffydd ap Rhys)と同盟して、1136年のクリグ・マウルの戦い(Battle of Crug Mawr / Crug Mawr)でノルマン人に対して大勝利をおさめました。

グヴィネズ王国のその後

グヴィネズのオワインは1137年に父の跡を継いでグヴィネズの王となり、亡くなる1170年まで国を治めました。さらにイングランドがスティーブンとマチルダの王位継承戦争で揉めている間に、その支配域を東へ拡大することができました。

  関連リンク   王位継承戦争:ヘンリー1世の娘マチルダ VS 甥スティーブン

グヴィネズ王国はオワインの死後、その息子らによって国が分割されました。

デハイバース王国のその後

1137年にデハイバース王国のグリフィズ・アプ・リス(Gruffydd ap Rhys)が殺害されました。しかし彼の4人の息子が順にデハイバース王国を統治し、ノルマン人に乗っ取られた領土を徐々に回復しました。

4人のうち最年少のリス・アプ・グリフィズ(Rhys ap Gruffydd / The Lord Rhys / r. 1155 – 1197)は、1171年にイングランドのヘンリー2世と会い、イングランド国王に年貢を納めることに合意します。しかし彼は、彼が制圧した領土を認められました。リスは、しばらくのあいだウェールズの大部分の覇権を握りました。

1196年のデハイバース地域
黄:ヘンリー2世下におけるリスの支配域
灰:ノルマン人が掌握
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ポウイス

ポウイスもまたマドグ・アプ・マレダッド(Madog ap Maredudd)という強力な国王によって統治されていました。しかし1160年に彼が亡くなくなったあと、世継ぎ(Llywelyn ap Madog)が早々に世を去り、王国は二つに分断されてしまいます。この王国が再統一されることはありませんでした。 


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参考
Early_Medieval_Wales
Wales and the Normans: 1067–1283
王国:Gwynedd Powys Morgannwg Dyfed
王:Gruffydd ap Llywelyn … Owain Gwynedd

ノルマンコンクエスト:ヘイスティングスの戦い
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