アングロサクソン七王国時代:七王国のなりたち

アングロサクソン七王国時代:七王国のなりたち
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ローマ撤退後のブリテン島

ブリテン人の部族社会が復活

ゲルマン系民族のアングロ-サクソン人(Angles / Saxons / Jutes)がブリテン島の南東部に定着し内陸に押し寄せはじめた5世紀前半、ブリトン人は内陸部にいくつもの王国を築いていました。ブリテン島では人々が地方へ後退するにしたがいローマ支配以前の部族制社会が復帰していました。

アングロ人(赤)サクソン人(青)紀元500年頃
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  関連リンク   ローマ撤退後のブリテン島(3)アングロ-サクソン人の侵入と定着

Kent
ケント王国(c. 455–871)の成り立ち

ケント(Kent / Cantware)は450年代半ば頃にゲルマン系民族の主にジュート人(Jutes)にすっかり乗っ取られた地域です。これにはゲルマン系諸民族を率いていたヘンギストとホルサ(Hengist and Horsa)が関わっていたかもしれません。

伝説によればヘンギスとホルサは、ブリトン人の王国の王ヴォーティガン(Vortigern)の提案で、土地を与えられるかわりに兵力を提供する約束を交わし、途中でヴォーティガンを裏切ったとされています。ホルサは殺されますが、457年頃、ヘンギスがブリトン人をケントから追い出しました。

土地をさがしていた多くのジュート人、そしていくらかのサクソン人や他のゲルマン系の人々がケントに定着しました。

ケント王国
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ローマ時代から傭兵として定着していたゲルマン系民族

ローマンブリティシュ人が住んでいた4世紀ころから、ケントは度重なる海からの攻撃にさらされてきました。そこでどうやら、ゲルマン語を話す異民族が傭兵として招き入れられて、この地域に住み始めたようです。410年にローマ支配が終わると、さらに新たなゲルマン語系の民族集団がこの地に移住してきました。これは文献史料に加えて考古学調査からも判明しているそうです。最初に定着したのはジュート人で、東ケントに王国を築きました。当初はフランシア王国(Kingdom of Francia)の支配下にあっただろうと考えられています。東ケントから始まった王国は6世紀に西ケントまで拡大し、当時そこに定着していたゲルマン系の人々を征服した可能性があります。

ケント王国の国王一覧はここで見れます:

List of monarchs of Kent(EN)

Sussex
サセックス王国(c. 477–860)の成り立ち

アングロサクソン年代記(Anglo-Saxon Chronicle)によると、サセックス王国(Sussex)は477年に、ゲルマン系民族によって建てられたとされています。ゲルマン系民族は、先住の人々を追い払ったか、あるいは征服しました。ケントやエセックス同様、大陸からのゲルマン系民族が新たに加わり人口が増えたようです。

しかし500年頃に、この人口増加がとまります。これには、伝説の「ベイドン丘の戦い(Battle of Badon)」が関係しているかもしれません。ブリトン人がサクソン人に圧勝したとされる戦いで、9世紀に書かれた文献(Historia Brittonum)では、戦士アーサー(Arthur)が率いたとされています。

紀元600年頃のサセックス王国
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サセックス王国の建国神話

477年、エール(Ælle)と彼の3人の息子が3隻の船で到着し、サセックスにあたる地域を征服しました。エールは、ハンバー川の南にあったアングロサクソン系の王国の支配者となりました。

歴史家はエールが実在したかどうかについて議論しています。いずれにせよ、5世紀頃にミッドランド(Midlands)まで勢力を拡大したのは考古学的証拠からも確かなようです。しかし長続きはしませんでした。

サセックス王国の国王一覧はここで見れます:

List of monarchs of Sussex(EN)

Wessex
ウェセックス王国(519–927)の成り立ち

ウェセックス王国(Wessex)は、519年にサクソン人の族長チェルディッチ(Cerdic)とキュンリッチ(Cynric)が建国したとされていますが、こちらも伝説上の人物です。建国者については確かなことがほとんど知られていませんが、王国はこのような初期の王のもとで繁栄し成長しました。

9世紀のイングランド南部の様子
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アングロサクソン年代記

アングロサクソン年代記(Anglo-Saxon Chronicle)には、チェルディッチと息子のキュンリッチが495年に南ハンプシャー(Hampshire)に上陸したとされています。しかし多くの歴史家はこれを史実として認めていません。別の文献では、キュンリッチではなくクレオダ(Creoda)の名が記されていたり、また南ハンプシャーはジュート人によってすでに占領されていた証拠も出ているそうです。

伝説では、508年にチェルディッチとキュンリッチがブリトン人国王のナタンレオド(Natanleod)と5000人の戦士を倒して、519年にチェルディッチがウェセックスの初代国王になったとされています。

ウェセックス王国の君主一覧はここで見れます:

List of monarchs of Wessex(EN)

Essex
エセックス王国(c. 527–825)の成り立ち

エセックス(Essex / East Saxons)にはローマ時代からサクソン人が定着していました。いくらかは同盟者として、またいくらからは、大陸から新たにやってきて仲間入りしたゲルマン系の人々でした。

エセックス王国が成立したとされる年にはさまざまな見解がありますが、一般的には527年頃とされています。王国の成立以前から、あるていど統一された地域となっており、またケント王国の保護下にあった可能性もあります。隣接するミドルサクソン(Middle Saxons)地域を、現地の副支配者を通じて支配下に置いていました。

七王国時代のエセックス王国とミドルセックス地域
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エセックス王国とケント王国は親しい関係にあり、テームズ川さえも障壁ではなかったようです。もしかすると両国はひとつの王国だったのかもしれない、とも言われています。

ちいさな王国を吸収

エセックス王国は小さな準王国あるいはサクソン系部族を吸収して拡大しました。このような準王国が存在した場所については諸説あります。

エセックス王国の国王一覧はここで見れます:

List of kings(EN)

Mercia
マーシア王国(527–918)の成り立ち

マーシア王国(Mercia)は、ハンバー河(Humber)の南に、515年頃もしくは527年頃に建てられた王国です。伝説上の建国者はアイソル(Icel)と呼ばれるゲルマン系の人物で、彼と仲間たちは、イーストアングリアを含む中央部に定着しました。現在ミッドランド(Midlands)と呼ばれるエリアです。

緑色のエリアはマーシア王国の覇権が最大のときの支配域
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マーシア王国のなりたちは不詳

アングロ-サクソン期におけるマーシア王国の発展の過程は、ノーザンブリア王国やケント王国などに比べてあいまいです。ウェセックス王国もなりたちが不詳ですが、マーシア王国についてはそれ以上に謎が多いそうです。キリスト教化も他の国より遅れました。

考古学調査から、6世紀のテームズ川の北にアングロ人の定着があったことはわかっています。”Mercia” とは古英語で ”境界の民(boundary folk)” という意味だそうです。 「先住のウェールズ人と侵略者アングロサクソンの境界を表している」というのが伝統的な解釈ですが、異論もあるようです。

マーシア王国の国王一覧はここで見れます:

List of monarchs of Mercia(EN)

East Anglia
イーストアングリア王国(571–918)の成り立ち

前世紀を通じてアングロ人は、ローマ時代の後期からこの地に定着していたサクソン人とともに、支配力を増してきました。ノーフォーク(Norfolk)とサフォーク(Suffolk)が融合して強力な王国となりイーストアングリア王国(East Anglia)が571年頃に現れたとされています。6-7世紀のものとみられるサットン・フー(Sutton Hoo)の豪華な埋葬品から、財力や技術をうかがい知ることができます。

アングロサクソン期のはじめ頃のイーストアングリアの図。サットン・フーは南東の海岸に位置。
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左上から時計回りに:容器の蓋、バックル、ベルト、肩の留め金
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過疎化した地域にアングロサクソン人が定着

ベンタアイスノルム(Venta Icenorum)を中心とした地域(旧イケニ族とローマ市民の縄張り)は、4世紀頃に過疎化していました。こち地域には、ほかの多くの地域よりも早い時期に、アングロサクソン人が定着しました。5世紀の初め頃のことと考えられています。やがて、ここにイーストアングリア王国が現れたとみられています。

イーストアングリア王国の君主一覧はここで見れます:

List of monarchs of East Anglia(EN)

Northumbria
ノーザンブリア王国(604/654–954)の成り立ち

現在のヨーク(York)は、ローマ時代にエボラクム(Eboracum)と呼ばれたブリタンニア北部の首都でした。ローマが撤退したあとも政治的な中心地として存続していましが、かつてのような都市としての繁栄は失われました。かわりにケルト文化色の濃い王国があらわれます。470年頃には、この王国からさらにべつの王国がいくつもあらわれていました。

ベルニシア(Bernicia)はブリトン人の王国のひとつだったといわれています。しかし547年にアングロ人に征服されました。さらに559年には、ブリトン人が暮らしていたデイラ(Deira)にもアングロ人の王が君臨しました。つづいて前述のエボラクムも、580年頃にアングロ人に乗っ取られます。

紀元700年頃のノーザンブリア王国
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ベルニシア王国とデイラ王国は互いに争っていましたが、604年にベルニシア王アゼルヴリス(Æthelfrith)が両国を統一します。エボラクムを含むこの一帯は、ノーザンブリア(Northumbria)と呼ばれました。「ハンバーの北 / ノースオブハンバー(North of Humber)」という意味です。ノーザンブリアの南の境界はハンバー河に沿っていました。

654年を、ノーザンブリア王国の始まった年とする考え方があります。内紛を経てオスウィウ(Oswiu)が再統一を果たした年です。

地域の名称はケルト語由来?

ティーズ川(River Tees)の北にベルニシア王国、南にデイラ王国がありました。どちらの王国も当初は先住民族によるケルト文化色の濃い王国で、これらをゲルマン民族が征服したと考えられています。文献資料はほぼ皆無ですが、この説を裏付けるものとして、地域の名称が挙げられています。ブリテン(ケルト語)由来のものと考えられています。

ベルニシア王国、デイラ王国、ノーザンブリア王国の国王一覧はここで見れます:

List of monarchs of Northumbria(EN)

The Celtic and Anglo-Saxon kingdoms in around 600

参考
Anglo-Saxon settlement of Britain
Overview: Anglo-Saxons, 410 to 800
The ‘Dark’ Ages: From the Sack of Rome to Hastings
HeptarchyEast Anglia
EssexKent
MerciaNorthumbria
SussexWessex
Aelle Anglo-Saxon ruler 

アングロサクソン七王国時代:王国の興亡(7世紀、8世紀、9世紀)
アングロサクソン七王国時代:王国の興亡(7世紀、8世紀、9世紀)
ブリテン島各地に乱立したアングロサクソン人の王国は互いに争い、7世紀初頭には上述の七つの王国が主要な王国として台頭していました。7世紀~8世紀を通じてさらに淘汰.....