[詳しく]6世紀のイギリス
       

410年にローマ皇帝ホノリウスがブリタンニアを見捨てた時をもって、ローマによるブリタンニア支配は終焉を迎えたと定義されています。以降は文献史料が乏しく、6世紀のイギリスについては多くが謎に包まれたままです。

6世紀のイギリスの主なできごとは次のとおりです。

  • ベイドン丘の戦い
  • 現存する当時の文献史料はギルダスによる「ブリトン人の没落」
  • アイルランド出身の宣教師らがスコットランドとイングランドに宣教
  • アイルランドの植民地が現スコットランド西部に築かれ、拡大
  • アングロサクソン人の国王として初めてキリスト教に改宗したのはケントのエゼルベルト
Advertisement

516年:ベイドン丘の戦い

ブリトン人がアングロサクソンに大勝利をおさめた戦い

ギルダス( Gildas / ca.504-570)は、アングロサクソン人がブリトン人に破れて大きく後退することになった「ベイドン丘の戦い( Mount Badon )」という戦闘があったことを書き残しています。ブリトン人の大勝利がどこかの時点であったことは間違いなさそうですが、その年が本当に516年であるかは、定かではありません。

なお、このときのブリトン人の指揮者が誰であったか、ギルダスは記していません。しかし数世紀後、この人物と伝説のアーサー王が結びつけられるようになりました。

関連記事アングロ-サクソン人の侵入と定着:ローマ撤退後のブリテン島(3)
抜粋文:アングロ-サクソン人は、現在のデンマークや北ドイツやオランダに相当する地域から、北海を南へ渡ってきた人々でした。航海術に長け、過去何年ものあいだに沿岸地域を襲っ.....

ベイドン山の戦いで騎馬隊を率いるアーサー(19世紀の画)
出典 Wikimedia Commons

540年代(?):ギルダスの「ブリトン人の没落」

アングロサクソン人に席巻されるブリトン人

ギルダス( Gildas )が記した「ブリトン人の没落( De Excidio et Conquestu Britanniae )」は、ローマ帝国の崩壊とアングロサクソン人の侵入の時期にもっとも近いころに記されたとされ現存する唯一の文献史料です。ギルダスの目には、アングロサクソン人の侵入が「神によるブリトン人への懲罰」として映ったようです。

なお、ギルダスが生きたとされるのは504年~570年頃ですが、幾人かの歴史家は、「ブリトン人の没落」が記されたのは490年頃だと考えています。

関連記事アングロ-サクソン人の侵入と定着:ローマ撤退後のブリテン島(3)
抜粋文:アングロ-サクソン人は、現在のデンマークや北ドイツやオランダに相当する地域から、北海を南へ渡ってきた人々でした。航海術に長け、過去何年ものあいだに沿岸地域を襲っ.....

540年頃のイギリスの様子
出典 Wikimedia Commons

565年:コルンバがアイオナ島に修道院を築く

ここで学んだ修道士が各地へ宣教

アイルランドのダロウ( Durrow )とデリー( Derry )に修道院を建てたコルンバ( Columbaは、そののち恐らくは何らかの軽罪を犯したために、アイルランドを去ることになりました。

スコットランドのアイオナ島( Iona )に身を寄せたコルンバは、ここに新たな修道院を建てました。ここで学んだ修道士たちが宣教師として、広くスコットランドとイングランドにキリスト教を広めました。のち2世紀のあいだアイオナ島は、キリスト教の学びの場として、ケルト界において最も有名な地となりました。

※コルンバ…キリスト教の宣教師

関連記事中世初期のスコットランド(5世紀~7世紀)
抜粋文:ローマ人がブリテン諸島から撤退してからのち数百年、現在のスコットランドに相当する地域にはおおきく4つのグループが存在しました。東にピクト人の王国、西にゲール語族.....

ピクト人の砦の門を叩くコルンバ(19世紀末画)
出典 Wikimedia Commons

575年:ドルイム・セットの集会

スコットランドのダルダリア国とアイルランド諸国王の話し合い

「ドルイム・セットの集会( The Convention of Druim Cett )」は、ダルダリア( Dál Riata )と北部アイルランドの国王たちの関係調整のために開かれたものと考えられています。ダルダリアは、現在の地図でいうスコットランド西部に位置していました。最初はアイルランドの小さな植民地でしたが、そこからゲール人によるスコットランドの大部分の征服がはじまりました。ダルダリアの地位は確立され、税の徴収に関して支配者の間で取り決めが成されました。

関連記事中世初期のスコットランド(5世紀~7世紀)
抜粋文:ローマ人がブリテン諸島から撤退してからのち数百年、現在のスコットランドに相当する地域にはおおきく4つのグループが存在しました。東にピクト人の王国、西にゲール語族.....

ダルリアダ王国のおおよその位置
出典 Wikimedia Commons

590年:アイルランド出身のコルンバヌスがガリアに渡る

数々の修道院を築いて宣教

アイルランドのレンスター( Leinster )出身のコルンバヌスは、北部アイルランドのバンガー( Bangor )の修道院で修行したあと、海を渡って宣教に努めました。12人の仲間を従えてガリア(現フランス)に渡ると、ここからフランクとイタリアの諸王国各地に影響力のある修道院を築きました。コルンバヌスは後に聖人化されました。

コルンバヌスのフレスコ画(イタリアのブルニャート大聖堂
出典 Wikimedia Commons

597年:ケント国王エゼルベルトがキリスト教に改宗

教皇グレゴリウスの指示を受けてイングランドに渡った聖アウグスティヌス

教皇グレゴリウス1世( Pope Gregory I )の指示を受けたアウグスティヌス( Augustine )は、596年に、宣教のためにイングランドに渡りました。ケント王国の国王エゼルベルト( Æthelberht )のキリスト教への改宗に影響を与えたと考えられています。

エゼルベルトは、アングロサクソン人のなかで初めてキリスト教に改宗した国王として知られています。

アウグスティヌスは聖人化されました。

関連記事アングロサクソン時代の宗教
抜粋文:ノルマン人による征服(1066年)よりも以前から、イングランドではキリスト教が信仰されていました。教会は強い影響力をもっていました。 目次 1. 初期…改宗と発.....

600年頃のアングロサクソン諸王国
出典 Wikimedia Commons

Advertisement

参考文献

Battle of Badon
last edited on 30 January 2023, at 04:06 (UTC))
early Christianisation
last edited on 2 January 2023, at 22:23 (UTC)
Vikings and Anglo-Saxons
BBC © 2014
[詳しく]5世紀のイギリス
[詳しく]5世紀のイギリス
ローマ帝国は4世紀末に東西に分裂しました。西ローマ帝国は、外敵の侵入を防ぎきれず疲弊してゆきました。5世紀初頭、イギリス(ブリタンニア)に派遣されていた軍がひと.....
5月23日頃 公開:[詳しく]7世紀のイギリス
(📜ノート作成中)この時代のまとめ文(導入)⇒作文補助 https://chat.openai.com/chat 7世紀のイギリスの主なできごとは次の.....
映画&ドラマ:古代~中世(前期) 編
映画&ドラマ:古代~中世(前期) 編
イギリスが舞台であったり、イギリスに関連すると思われる映画・ドラマを紹介しています。このページは「古代~中世初期編」です。ローマ支配期・ローマ撤退後の暗黒期・ア.....
       
?>