ジャコバイト最後の蜂起「カロデンの戦い」1745-46

ジャコバイト最後の蜂起「カロデンの戦い」1745-46
Advertisement

ステュアート朝の復活をめざして

1745年のジャコバイト蜂起( Jacobite rising of 1745 )は、ジェームス・フランシス・エドワードの英国王位奪還のために、息子チャールズ・エドワード( Charles Edward Stuart )がおこなった挑戦です。

チャールズの祖父は「名誉革命」で王位を逐われたジェームズ2世

1869年の「名誉革命」で王位を逐われたジェームズ2世( James II and VII )はチャールズの祖父にあたります。ジェームス2世は親カトリック政策をおこなったために議会によって追放されました。

イギリスの王位はメアリ女王&夫ウィリアム3世を経て、アン女王へと継がれました。メアリ女王もアン女王もジェームス2世の娘でしたので血筋には問題がなく、またプロテスタントだったのでイングランド議会からは過激な反対はありませんでした。しかしメアリ女王には嫡子がなく、アン女王の子供たちは早世しました。

ステュアート朝からハノーヴァー朝へ

イギリスでは「王位継承法」が成立し、王位継承権はプロテスタント教派に限ることが法律で定められました。ステュアート家のアン女王亡き後、もっとも近縁にあたるプロテスタント教派としてドイツ地方のハノーファー領主ゲオルグが招聘されることになります。ゲオルグは母方からジェームズ1世の血を引いています。1714年にジョージ1世として戴冠し、ここにハノーヴァー朝が誕生しました。

このような背景からカトリック教派であったジェームス2世の息子と孫にとって、復位はむずかしいものになっていたのです。チャールズが蜂起した1745年は、ジョージ2世の治世にあたります。

Charles Edward as the Jacobite leader

1745年の反乱は、オーストリア継承戦争の最中に引き起こされました。ほとんどのイギリス軍が、ヨーロッパ大陸に遠征して戦っているときです。

勝利を重ねるも支援を得られず、カロデンで敗戦

スコットランドで勝利を重ねる

1745年8月19日、ハイランドのグレンフィナン( Glenfinnan )でチャールズが蜂起します。エディンバラ( Edinburgh )を掌握し、9月にプレストンパンズの戦い( Battle of Prestonpans )で勝利します。

チャールズは「イングランドのジャコバイトからの支援が得られること」、「南イングランドには味方のフランス兵が上陸すること」をジャコバイト軍に約束します。これを受けてジャコバイト軍は11月にイングランドに入りました。

支援を得られず、味方とも亀裂が生じ…

しかし12月4日、ダービー( Derby )まで進んだところで、彼らは引き返すことを決断します。

彼らが進んできたルートはジャコバイトの多い地域でしたが、イングランド人から実質的な支援を得られなかったのです。退却には大多数が賛成しました。しかしここで、チャールズと支援者の間に亀裂が生じたのです。

カロデンの戦いはジャコバイト最後の蜂起

1746年1月のフォルカークミュア( Falkirk Muir )でこそ勝利をおさめますが、4月のカロデンの戦い( Battle of Culloden )で完敗を喫する結果となりました。念願の王位奪還はならず、チャールズは大陸へ逃げ帰ることになります。

final confrontation of the Jacobite rising of 1745-46 and part of a religious civil war in Britain

カロデンの戦いは、長年にわたるジャコバイトの反乱の最後の戦となりました。1689年にはじまったジャコバイトの反乱は、比較的規模の大きい蜂起を1708年、1715年、1719年に起こしており、1746年ついに終止符が打たれることになりました。チャールズは1788年に亡くなりました。

参考
Jacobite rising of 1745
History of Britain and Ireland: The Definitive Visual Guide