広義の「ピューリタン革命」 –  3つの王国の戦争(後編)
       

第一次イングランド内戦では、ニューモデル軍の活躍で議会派が王党派に勝利しました。しかし議会派のなかで長老派と独立派の分裂がいっそう深まります。

このページは、広義の「ピューリタン革命」 – 3つの王国の戦争(前編)の続きです。

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1647-48年:第二次イングランド内戦

チャールズ1世の身柄、イングランド議会へ引き渡し

議会の長老派と独立派の分裂を加速させる狙いをもって、チャールズ1世はあえてスコットランド盟約者だけに降伏し、スコットランドで捕虜となりました。しかし事態はチャールズ1世の思惑通りには運ばず、チャールズ1世の身柄はイングランド議会に引き渡されます。

※スコットランド盟約者…国王との交渉と和解を望んでいる点で、イングランド議会の長老派と一致。

チャールズ1世の身柄

国王チャールズ1世の身柄がスコットランドの手中にあることに、イングランドの議会派は苛立っていました。ここまではチャールズ1世の思惑通りでした。

スコットランドとチャールズ1世の間で秘密の交渉も進みました。しかし、この通信文が傍受されて明るみに出たとき、スコットランドは厳しい状況に立たされます。スコットランド議会は、自らの要求を大はばに譲歩して、イングランド議会の提案条項(Heads of Proposalsに従う姿勢に切り替えました。

※秘密の交渉…スコットランド教会の制度をイングランドのそれよりも優遇するなどの条項。
※提案条項…独立派が起草・発表した国政改革の草案。

提案条項を受け取ったチャールズ1世は、返事を引き延ばせるだけ引き延ばして、敵の同盟が破綻することを期待して時間を稼ぎました。しかしそんなチャールズ1世の作戦は裏目にでます。スコットランド勢は、盟約者軍をイングランドから撤退させるとともに、国王をイングランド議会に引き渡すことにしたのです(1647年2月)。

The Newcastle Propositions | BCW Project

ニューモデル軍が政治勢力として台頭

イングランド議会の長老派は、チャールズ1世との和解ばかりを気にかけていました。そのあいだに、賃金の支払いが滞っていたニューモデル軍( New Model Army )の兵士のあいだには大きな不満が募っていました。

※長老派…ここでは「保守的な考え」をもった人々

軍の代表が賃金の支払いを要求したとき、長老派はこれに向き合うよりも、ニューモデル軍に解散を言い渡すことでうやむやにしようとしました。軍の指揮官や兵士は憤慨します。これが、ニューモデル軍の急進化につながりました。こうしてニューモデル軍は、議会から独立した政治勢力として台頭するのです。

1647年夏、チャールズ1世の身柄はニューモデル軍の管理下に置かれました。

ニューモデル軍の不満の理由

第一次イングランド内戦を勝利に導いたニューモデル軍は「長期議会」に不満と怒りを抱くようになりました。主な理由は次の3つです。

賃金の未払い
長老派議員はニューモデル軍を解散または、アイルランドに送り込むことで、未払いの件をうやむやにしようとした。
戦犯への恩赦がない
内戦中に命令に従っておかした犯罪(騎兵隊のために馬を盗むなど)に恩赦がなく、戦後に何人かの兵士が絞首刑に処された。
国王への要求がぬるい
「民主化改革」や「信仰の自由」を王党派打倒のスローガンだと信じて戦い勝利したにも関わらず、敗戦した国王との交渉にこれらが十分に含まれていなかった。多くの兵は、命を危険にさらした意味は何であったのかと疑問を投げ、怒りは代表を通じて力強く述べられた。

Agreement of the People

ニューモデル軍は、敵対する長老派を威嚇するためにロンドンを占拠しました。またニューモデル軍の急進派と民間のレベラー( civilian Levellers )のあいだに密接な関係が築かれ、同年10月から11月にかけて、「急進派」と「水平派」と「政体策定最高司令部」の討論会が行われました。

水平派 / レベラーズ

国民主権、参政権、法の下の平等と信仰の自由を、論説や請願や演説を通して一般大衆に訴えた人びとです。革命の徹底を求める急進的な思想で、ロンドンの民衆やニューモデル軍から支持を受けました。当初は独立派と近かったものの、共和国の成立以降は弾圧にあって衰退します。

なお、「レベラー」という名称は自称ではなく敵対する人々によって付けられました。

主な関係者

Levellers
Levellers | BCW Project

チャールズ1世とスコットランド人の密約

急進派が討論会を進めるいっぽうで、議会と国王の和解を目指す交渉も続けられていました。しかしチャールズ1世は、和解よりも逆転の機会をうかがっていました。

チャールズ1世は捕虜となっていましたが、議会内の分裂を利用しつつ、外部からの軍事支援を得る計画を立てていました。

1647年12月、チャールズ1世は「スコットランド人との密約」に署名します。チャールズ1世が復位できた暁には、スコットランド長老派教会を3年間優遇するという条件と引き換えに、スコットランド軍の支援をとりつけたのです。これが第二次イングランド内戦につながります。

チャールズ1世の支援軍、破れる

チャールズ1世と結んだスコットランド軍( Engagersは、プレストンの戦い( battle of Preston )で、オリバー・クロムウェル( Cromwell )に破れました。ケントとエセックスで蜂起した王党派軍もフェアファクス( Fairfax )に破れました。

※スコットランド軍…スコットランド盟約者の一派で、チャールズ1世と密約を結んだ人たち。ほかの盟約者と区別するために「エンゲージャー」とも呼ばれる。

ニューモデル軍は抗議文を提出し、故意に第二次内戦を引き起こしたとして国王を非難しました。

プレストンの戦い(19世紀画)
出典 Wikimedia Commons

長老派の追放(プライドのパージ)

1648年12月、アイアトン( Ireton )が率いるニューモデル軍が、庶民院にて”粛清”を行いました。ニューモデル軍に敵対すると思われる議員(おもに長老派)の追放および逮捕です。トマス・プライド( Colonel Pride )によって行われたため「プライドのパージ( purge )」として知られています。

追放されたメンバの入場を阻むプライド大佐
出典 Wikimedia Commons

粛清が行われた後、国王チャールズ1世は人民の敵として裁判にかけられました。

最高裁で裁かれるチャールズ1世
(中央で背を向けて座っている人物)
出典 Wikimedia Commons

1649-53年:共和制国家

チャールズ1世の処刑

1648年に行われたニューモデル軍による“粛清”(プライドのパージ / purge )によって、長期議会には、過激派が承認した少数の議員だけが残されていました。こうした経緯から、この議会はのちに「残部議会( Rump Parliament )」と呼ばれるようになります。

残部議会は高等法院を設立し、国王チャールズ1世の裁判を行い、1649年1月に処刑を執行しました。

当時のドイツで刷られた処刑の様子
出典 Wikimedia Commons

イングランド共和国の設立

チャールズ1世の処刑が終わると、残部議会は君主制および貴族院( House of Lords )を廃止し、庶民院に従属する執行機関として国務会議( Council of State )を設置しました。

1649年5月、イングランドは共和制の国家( Commonwealth )として宣言されました。

イングランド共和国(1653)
出典 Wikimedia Commons

征服によるイギリス共和国の誕生

1650年代を通じて、非協力的なスコットランドおよびアイルランドを、共和国に組み込む試みが行われました。(これはイギリスの歴史において、初めて、3ヵ国が中央政府によって統治される機会となりました。)

征服による統一を果たしたコモンウェルス政府は、海軍力にものを言わせて、ヨーロッパ諸国に「イギリス共和国」成立の正当性を認めさせました。

イギリス共和国(1660)
出典 Wikimedia Commons

残部議会の追放からクロムウェル全権掌握まで

コモンウェルスは内政においても、その権力を維持するために軍隊に依存していました。しかし、オリバー・クロムウェルが率いる上級将校らと、ヘンリー・ベイン( Henry Vane )が率いる政治家との間に、異常な緊張が高まり始めます。

1653年4月、クロムウェルは兵士の集団を率いて、残部議会のメンバを強制的に庶民院から追放しました。

オリバー・クロムウェルらによって、残部議会に代わるメンバが指名されて招集されました。この議会派「指名議会( Nominated Assembly )」または「ベアボーンズ議会」と呼ばれます。しかし早々に内部分裂を起こし、1653年12月に全権をクロムウェルに明け渡すことになります。

1654-59年:護国卿時代

護国卿クロムウェル、批判的な議会を早々に解散

残部議会の追放と指名議会の解散につづいて、「統治章典( Instrument of Government )」として知られる憲法が制定されました。この法にもとづき、国務会議と協議して選出された「護国卿( Lord Protector )」に行政権が委ねられることになりました。

護国卿として選出されたオリバー・クロムウェル( Oliver Cromwell )が生涯護国卿となります。こうして護国卿時代がはじまりました。

国王に対して課せられていた「最低でも3年に一度は議会を招集すること」という義務は、護国卿にも引き継がれました。さてしかし、護国卿時代の第一回議会( First Protectorate Parliament )は「政府に対する軍将校の影響」に批判的でした。さらに議会は、護国卿の権限に制限を設けようとする動きをみせました。すると護国卿クロムウェルは、早々にこの議会を解散するのです。

オリバー・クロムウェル
出典 Wikimedia Commons

「軍政監」も不評のため中止

1655年の春に王党派が蜂起しました。クロムウェルはこれを鎮圧しますが、その後イングランド及びウェールズに軍事政権を導入します( Rule of the Major-Generals )。

クロムウェルの身内や側近の軍将校が、地方の監視にあたりました。王党派を摘発し罰金をかけて運営費を賄い、合わせてピューリタンが重視する道徳を民衆に徹底させました。このため娯楽をうばわれた民衆を含む様々の方面から評判が悪く、結局1657年の初頭には解消することになります。

クロムウェルが事実上の「国王」になる

第二回議会において議員の一派が、政情の安定を図り、クロムウェルに王位を与えることによる「王政の復活」を試みました。しかし軍や共和制主義者や宗教的過激派がこれに猛反対します。そのためクロムウェルは王位こそ断ったものの、新たな章典「謙虚な請願と勧告( Humble Petition and Advice )」によって、事実上、国王と同等かそれ以上の権力を持つ護国卿として再就任しました。

護国卿時代の終焉

オリバー・クロムウェルは1658年9月に亡くなります。護国卿の地位は、息子であるリチャードに引き継がれました。この継承は滞りなく行われました。

リチャードは1659年に第三回議会を招集します。しかし、リチャードは軍人と文民政治家の対立にうまく対処することができませんでした。

軍の上級将校がクーデーターによって権力を掌握すると、リチャードは議会の解散を余儀なくされます。軍が「護国卿政権」以前の「共和国制度」への復帰を宣言したあと、リチャードは正式に辞任しました。

リチャード・クロムウェル
出典 Wikimedia Commons

1659-60年:王政復古

軍事政権の崩壊、追放された議員の復帰

護国卿政権が崩壊した後、1659年5月に残部議会が復活します。

しかし軍と文民政治家の対立は続いていました。議会が上級将校9人を解任すると、報復として少将ジョン・ランバート( John Lambert )がウェストミンスターに進軍し、残部議会を追放しました。これは1653年にクロムウェルが行ったのと同じような出来事でした。

ジョン・ランバート
出典 Wikimedia Commons

軍事政権は、暫定政府として安全委員会( Committee of Safety )を設置します。これに対抗するために、アーサー・ヘジルリッジ( Sir Arthur Heselrige )は応援を求めました。スコットランドに赴任中の陸軍司令官ジョージ・マンク( General George Monck )がこれに応えて、「議会を唯一の合法政府として復帰させること」を要求しました。

ジョージ・マンク
出典 Wikimedia Commons

ランバートの軍事政権は各方面からの反対に直面して崩壊し、残部議会がふたたび戻されました。

1660年1月、モンクは議会に招かれてロンドンに向かいます。ロンドンに到着したモンクは、かつて「プライドのパージ(1648)」で追放されていた議会メンバの議会復帰も支援しました。これらのメンバは1660年2月に正式に承認され、再構成された「長期議会」は最終セッションへと入ります。

王政復古、チャールズ2世が王位に就く

この間、亡命していたチャールズ2世(処刑されたチャールズ1世の息子)とその支持者は、イングランドで繰り広げられる政治的混乱を注意深く観察していました。とりわけ重要なのは、チャールズ2世支持の代表者らが、王政復古の可能性をふまえてモンクと秘密の交渉を行っていたことです。

長期議会は、次の議会「国王の招集によらない議会( Convention Parliament )」の準備を整えてから、1660年3月に解散しました。

1660年4月、チャールズ2世はブレダ( Breda )から和解の意思を発表します。そしてこれが、無条件で議会( 国王の招集によらない議会 )に受け入れられたのです。

同年5月8日、チャールズ2世は国王として宣言され、29日にロンドンに入城しました。戴冠は、翌1661年の聖ジョージの日(4月23日 / St George’s Day )に行われました。

チャールズ2世
出典 Wikimedia Commons

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参考文献

Church-and-state
The BCW Project | British Civil War, Commonwealth & Protectorate 1638- 1660
Overview: Civil War and Revolution, 1603 – 1714 | BBC
dd(ctrl + shift + D)
English Civil War
edited on 17 June 2022, at 15:00 (UTC).
Wars of the Three Kingdoms
Wikipedia | edited on 9 June 2022, at 18:05 (UTC)
Five Members
Wikipedia | edited on 9 January 2022, at 18:31 (UTC)
English Dissenters
WikiPedia | edited on 16 April 2022, at 08:32 (UTC)
日本聖公会東京教区
NSKK,Diocese of Tokyo | Japan Bible Society,Tokyo

イングランド議会
 ┣ 王党派
 ┗ 議会派
   ┣ 長老派
   ┗ 独立派

アイルランドカトリック同盟
 ┣ 国王と和解派
 ┗ 国王と軍事対決派

スコットランド盟約
  ┗ イングランド議会長老派と同盟
    ┣ エンゲージャー
    ┗ ウィガモアレイド

プロテスタント
 ┣ イングランド国教会(監督制)
 ┃ ┣ ハイチャーチ流
 ┃ ┣ ピューリタン
 ┃ ┣ レベラー
 ┃ ┣ クエーカー
 ┃ ┗ 第五王国派
 ┗ スコットランド教会(長老制)
   ┗ 長老派

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