ヘンリー8世(Henry VIII)
       

ヘンリー8世は、イングランド国教会を設立したこと、そして6人の妃をもったことで知られています。これらは後継ぎの男児を切望したためだと云われています。

ヘンリー8世と最初の妃との間に産まれた男児は生後間もなく亡くなってしまいました。妃が出産の難しい年齢にさしかかると、ヘンリー8世は再婚を考えます。再婚するには、最初の妃との結婚を無効化する必要があり、これにはローマ教皇の承認が必要でした。しかしローマ教皇はこれを認めませんでした。そこで、ヘンリー8世はローマ教会から離脱し、ヨーロッパで巻き起こっていた宗教改革運動に乗じて、国王が最高権威(首長)となるイングランド国教会の設立に至るのです。

ヘンリー8世の3番目の妃ジェーンが男児エドワードを出産しました。ヘンリー8世が亡くなると、このエドワードが6世として跡を継ぎます。しかし若くして亡くなってしまい、王位継承と宗教改革に関する問題が残されました。

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ヘンリー8世(Henry VIII)

ヘンリー8世
出典 Wikimedia Commons
治世1509年4月22日-1547年1月28日(37年282日)
継承権ヘンリー7世とヨーク家のエリザベスの息子
生没1491年6月28日:Greenwich Palace
1547年1月28日(55歳):Whitehall Palace
家系テューダー家(Tudor
父母 Henry VIIElizabeth of York
結婚1509年:キャサリン・オブ・アラゴン(Catherine of Aragon
1533年:アン・ブーリン(Anne Boleyn
1536年:ジェーン・シーモア(Jane Seymour
1540年:アン・オブ・クレヴィス(Anne of Cleves
1540年:キャサリン・ハワード(Catherine Howard
1543年:キャサリン・パー(Catherine Parr
子供Henry, Duke of Cornwall
メアリ1世(Mary I, Queen of England
Henry FitzRoy, Duke of Richmond and Somerset (私生児)
エリザベス1世(Elizabeth I, Queen of England
エドワード6世(Edward VI, King of England
ほか
埋葬St George’s Chapel

年表

1509ヘンリー7世の崩御にともなって、息子ヘンリーが8世として即位
ヘンリー8世、アラゴン王女キャサリンと結婚
※キャサリンは亡き兄アーサーの未亡人
1511ヘンリー8世、対仏同盟に加盟
40歳未満の男性に弓の訓練を義務化
1513フロドゥンの戦い( Battle of Flodden Field )でイングランドがスコットランドに勝利
スコットランド王ジェームス4世が殺害される
1515ヨーク司教トマス・ウルジー( Thomas Wolsey )がヘンリー8世に抜擢され政治に関わる
1516妃キャサリン、メアリを出産
※のちのメアリ1世
1517マルティン・ルター( Martin Luther )が『95ヶ条の論題』を掲出し、ローマ教会を糾弾
1518ローマ皇帝、イングランド王、フランス王、スペイン王が和平を制約( Treaty of London
1520ヘンリー8世、フランスのフランソワ1世と会談( Field of the Cloth of Gold )し親睦を深めたが、神聖ローマ皇帝カール5世に対抗するための支援は得られず
1525ハンプトン・コート・パレス( Hampton Court Palace )が完成
ウィリアム・ティンダル( William Tyndale )が英語に翻訳した聖書を発行
1526ウルジー枢機卿が北部評議会( Council of the North )を再創設
1527ヘンリー8世、キャサリン妃との離婚の許可を教皇に求める
1529教皇から離婚の許可を得られなかったトマス・ウルジーが、反逆罪に問われる
裁判前に死去
トマス・モアが大法官( Chancellor )に任じられる
ヘンリー8世、ローマ教会からの離脱を開始
1531ハレー彗星が出現し、神の怒りと噂され人々がパニックに陥る
1532教皇権の侵害に耐えられず、トマス・モアが大法官を辞任
1533トマス・クランマー( Thomas Cranmer )がカンタベリー大主教に就任し、ヘンリー8世と妃キャサリンの結婚を無効化
ヘンリー8世、アン・ブーリンと結婚
アン・ブーリンがエリザベスを出産
※のちのエリザベス1世
教皇クレメンス7世がヘンリー8世を破門
1534イングランド国王をイングランド教会の頂点とする法案( Act of Supremacy )が通過
1535トマス・モアはヘンリー8世をイングランド国教会の頂点と認めず、処刑される
トマス・クロムウェル( Thomas Cromwell )が主教総代理( Vicar-General )に任じられ、教会の富を掌握
マイルズ・カヴァデール( Miles Coverdale )による聖書の英語訳が完成
1536ヘンリー8世、アン・ブーリンを処刑しジェーン・シーモアと結婚
ウェールズとイングランドの連合法( Act of Union )が成立
トマス・クロムウェルが、「改革」の名のもと修道院の解散を始める
修道院の解体に対し「恩寵の巡礼( Pilgrimage of Grace )」として知られる反乱がイングランド北部で起こる
1537Jane Seymour dies giving birth to Edward (later Edward VI).
妃ジェーン・シーモア、男子エドワードを出産して産褥死
1539大修道院を解体する法案( Act for the ‘Dissolution of the Greater Monasteries’ )が議会を通過
コルチェスター修道院長、グラストンベリー修道院長、リーディング修道院長が反逆罪で処刑される
1540ウォルサム修道院( Waltham Abbey )が解散される
ヘンリー8世、アン・オブ・クレーヴズと結婚後、すぐに無効化
トマス・クロムウェルが反逆罪で処刑される
ヘンリー8世、キャサリン・ハワードと結婚
1541スコットランドでジョン・ノックス( John Knox )による宗教改革はじまる
1542妃キャサリン・ハワードが反逆罪で処刑される
スコットランドのジェームス5世が死去し、生まれたばかりの娘メアリに王位が継承される
アイルランドの正式な君主として君臨
1543ヘンリー8世、キャサリン・パーと結婚
ヘンリー8世の息子エドワードとスコットランド女王メアリの結婚が約束される( Treaty of Greenwich )が、フランスと同盟したいスコットランドによって6ヵ月後に破棄される
1545ヘンリー8世の旗艦メアリーローズ( The Mary Rose )がソレント海峡で沈む
1546ヘンリー8世が病に伏す
1547ヘンリー8世の崩御
ヘンリー8世の治世の年表

おもなできごと

再婚のために英国国教会を創設

ヘンリー8世は、父王ヘンリー7世の遺言にしたがい、スペインのアラゴン王家の娘キャサリンと結婚しました。

※妃キャサリン…スペインとイングランドの同盟の一環でヘンリー8世の兄アーサーと結婚していたが、アーサーが早世したため、ヘンリー8世と再婚した。

しかし健康な男児に恵まれないまま、キャサリンは出産の難しい年齢にさしかかります。ヘンリー8世は別の女性との再婚を望みますが、キリスト教は「離婚」を禁じていました。

そのため「さかのぼって結婚を無効にする」必要がありました。ただしこれにはローマ教皇の承諾が必要です。しかし教皇クレメンス7世( Pope Clement VII )は承諾しませんでした。

こうした事情から、ヘンリー8世はローマ教会から離脱してイングランドに独自の教会を設立することを目指しました。

当時のヨーロッパではマルティン・ルターらを始めとする宗教改革運動が始まっていました。ヘンリー8世はこの運動に乗じてローマ教会から離脱し、イングランドに国教会を設立しました。イングランド国教会の最高権威は、イングランド国王自身です。

ヘンリー8世はキャサリンとの結婚を無効とし、アン・ブーリンと再婚しました。

ヘンリー8世の6人の妃

キャサリン・オブ・アラゴン(Catherine of Aragon
1509:結婚
1516:メアリを出産(のち1世)
1533:結婚の無効化
1536:死去

アン・ブーリン(Anne Boleyn
1533:結婚、エリザベスを出産
1536:不貞の罪で処刑

ジェーン・シーモア(Jane Seymour
1536:結婚
1537:エドワードを出産、産褥死

アン・オブ・クレーヴィス(Anne of Cleves
1540:結婚、すぐに無効化

キャサリン・ハワード(Catherine Howard
1540:結婚
1542:反逆罪で処刑

キャサリン・パー(Catherine Parr
1543:結婚

ローマ教会からの離脱とイングランド国教会の設立に関する一連の議会を、「宗教改革議会( Reformation Parliament )」と呼びます。1529年から1534年にかけて7つの主な法が設けられました。

王権の拡大と法律の改正

ヘンリー8世は急進的な法律改正を行い「教皇の権威( Papal supremacy )」には「王権神授説( divine right of kings )」で対抗しました。

王権も拡大し、王に逆らう者を反逆罪や異端の罪で処刑することがよくありました。こうした処刑の多くは正式な裁判を経ないで行われました( bills of attainder )。

ヘンリー8世は大臣らを通じて政治的な目的の多くも達成しました。寵臣たちは、ひとたび国王に嫌われると、追放されるか、最悪の場合は処刑されました。

ヘンリー8世政権に関わった主な人物(一例)

トマス・ウルジー(Thomas Wolsey
1515:抜擢され政治に関わる
1529:ローマ教皇から「キャサリン王妃との結婚の無効」をとりつけられず反逆罪に問われる⇒裁判前に自然死

トマス・モア(Thomas More
1529:大法官に任じられる
1532:大法官を辞任
1535:ヘンリー8世をイングランド国教会の首長と認めなかったため、処刑される

トマス・クロムウェル(Thomas Cromwell
1535:主教総代理に任じられる
1536:命令に従い修道院の解散
1540:反逆罪に問われ処刑される

リチャード・リッチ(Richard Rich
1547:大法官に就任

トマス・クランマー(Thomas Craner
1533:カンタベリー大主教に就任し、国王と妃キャサリンの結婚を無効化

ウェールズおよびアイルランドとの関係を法制化

これまでウェールズとイングランドは、融合はしていましたが法律上は異なる国でした。ヘンリー8世は法改正をもってこれを正式な連合国とし、イングランドの法がウェールズにも適用されるようしました(Laws in Wales Acts 1535 and 1542)。

これまでイングランド国王は「アイルランド卿」を兼ねており、実質的にはアイルランドにも君臨していました。ヘンリー8世は「アイルランド卿」をあらため「アイルランド国王」として、イングランド国王がアイルランドにも君臨することを法制化しました(Crown of Ireland Act 1542)。

莫大な収入と莫大な支出

解散を命じた修道院から得られる富や、法改革の結果得られる富、かつてローマ教会に支払われていた献上金などを、ヘンリー8世は没収しました。

莫大な収入を得たヘンリー8世は、支出も莫大でした。個人的な浪費のほか、失敗に終わった数々の戦争に費やされました。

戦争(一例)

  • フランス国王フランソワ1世との戦争
  • 神聖ローマ皇帝カール5世との戦争
  • スコットランド国王ジェームス5世との戦争
  • スコットランド摂政アラン伯およびメアリとの戦争

参考:France and the HabsburgsSecond invasion of France and the “Rough Wooing” of Scotland

カリスマ性のある国王

この時代を生きた人々はヘンリー8世を「活発で教養があり、なにごとも完遂する国王」と評価していたようです。

ヘンリー8世はイングランド史において「強いカリスマ性をもった国王のひとり」と述べらることの多く、その治世もまた「最も重要」と位置づけられています。

ヘンリー8世は「イングランド海軍の父( the father of the Royal Navy )」としても知られています。海軍に莫大な投資をおこない、数隻だった船を50隻以上にまで増やし、「海洋評議会( Navy Board )」も設立しました。

ヘンリー8世の人柄

ヘンリー8世は、フランス語やラテン語に明るく、すぐれた騎手でありスポーツマンでもあり、さらにダンスも上手く音楽の才能もあったと云われています。

ヘンリー8世が作曲した最も有名な曲は「Pastime with Good Company」です。こちらで聞くことができます。「グリーンスリーブス」という曲も作曲した、という説がありますが信憑性は薄いようです。

ヘンリー8世は、イングランドを旅することを楽しみました。人々のまえに姿を現すことも多く、王子であった時代からヘンリーの人気は高かったようです。

年齢を重ねるにつれ、ヘンリー8世は太り気味になり、健康状態も悪化しました。中年以降のヘンリー8世は、好色で自分勝手で妄想にとらわれた暴君として描かれることが多いです。

ヘンリー8世が亡くなると、ジェーン・シーモアが生んだエドワード6世に、王位が継承されました。

地図

ハンプトンコートパレス

ヘンリー8世が建てた宮殿です。ロンドンを訪れたら、すこしだけ足をのばして、ぜひ立ち寄りたい人気の観光地です。

おまけ

ヘンリー8世の作曲「Pastime with Good Company」

Henry VIII: Pastyme with good companye (c.1514), Original Pronunciation EARLY MUSIC MIDI

ヘンリー8世が作曲したことで知られる「Pastime with Good Company」の演奏です。


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参考
Henry VIII
King Henry VIII (1509 – 1547)
A Brief History of British Kings & Queens


ヘンリー7世(Henry VII)
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