アン女王(Anne Stuart)
       

アン女王はステュアート王家最後の君主です。ジェームス2世の次女ですが、イングランド国教会を信仰するプロテスタント派です。メアリ2世の王配であったウィリアム3世の跡を継いで、1702年に即位しました。

アン女王はあまり聡明ではなかったと伝えられており、また健康面にも問題を抱えていました。

アン女王の治世に起きた重要なできごとは、イングランドとスコットランドの統一です。これまでは、同君連合ではあるものの別々の国でしたが、アン女王の治世に、グレートブリテン王国というひとつの国になりました(1707)。

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アン女王(Anne Stuart)

治世1707年5月1日-1714年8月1日(7年93日)
継承権ジェームス2世の娘
生没1665年2月6日:St James’s Palace
1714年8月1日(49歳):Kensington Palace
家系ステュアート家(Stuart
父母James II and VII
Anne Hyde
結婚George of Denmark(1683年)
子供Prince William, Duke of Gloucester
ほか流産、死産、早世が多数
埋葬Westminster Abbey
アン女王

年表

1702アン女王の即位:義兄にあたるウィリアム3世を継いで即位
スペイン継承戦争:イングランドがフランスに宣戦布告( War of the Spanish Succession
1704ブレンハイムの戦い( Battle of Blenheim ):マールバラ公爵が率いるイングランド、バイエルン、オーストリアの兵がフランス軍を破り、フランスのオーストリア侵攻を阻止
ジブラルタルを掌握( Capture of Gibraltar ):イギリス軍がジブラルタル海峡を占領
1706ラミイの戦い( Battle of Ramillies ):マールバラ公爵がフランス軍を破り、オランダからフランス軍を追放
1707グレートブリテン王国の誕生:イングランドとスコットランドの統一。スコットランドの政府機関はロンドンに移される
1708アウデナールデの戦い( Battle of Oudenarde ):マールバラ公爵がフランス軍を破る
君主の拒否権が最後に行使された日:アン女王が「スコットランド民兵法案( Scottish Militia Bill )」の裁可を拒否
ジェームス老僭王( James Edward Stuart )がスコットランドに上陸:父に代わって王位奪還を目指すが成らず
1709マルプラケの戦い( Battle of Malplaquet ):マールバラ公爵がフランス軍に勝利
1710政権交代:ホイッグ党政権の失脚、トーリー党内閣が発足
ロンドンにセント・ポール大聖堂が完成( St Paul’s Cathedral ):クリストファー・レン(Sir Christopher Wren)による設計
1711アスコット競馬場の創設( Ascot Racecourse
1713ユトレヒト条約の締結( Peace of Utrecht ):イギリスとフランスが署名し、スペイン継承戦争が終結
1714アン女王の崩御:ケンジントン宮殿で亡くなる( Kensington Palace
アン女王の治世の年表

おもなできごと

教派はイングランド国教会

アンはジェームス2世の次女です。アンが産まれた1665年は、チャールズ2世の治世でした。当時、父ジェームスはまだ国王ではなく、ヨーク公爵でした。アンの母はアン・ハイド( Anne Hyde )です。ジェームスが王位に就く前に亡くなりました。

ジェームスはカトリック派でしたが、チャールズの指示により、長女メアリと次女アンはイングランド国教会教徒( Anglicans )として育てられました。

姉はメアリ2世

姉メアリはオランダのプロテスタント派ウィリアム(のちの3世 / William III )に嫁ぎ、アンはデンマーク王家の次男ジョージ( Prince George of Denmark )に嫁ぎました。

1685年にチャールズ2世が亡くなると、父ジェームスが王位を継承しましたが、わずか3年後には「名誉革命( Glorious Revolution )」によって廃位させられます。姉メアリと王配ウィリアムが王位に就きました。

姉メアリとは親しくしていましたが、メアリが即位した頃から意見が合わなくなり、だんだんと疎遠になりました。

ウィリアム3世を継いで即位

姉メアリ2世と王配ウィリアム3世の間には、子供がありませんでした。メアリ2世は1694年に亡くなり、ウィリアム3世は1702年に亡くなりました。

アンはウィリアム3世を継いで、女王として即位しました。

グレートブリテン王国の誕生

アンが即位したとき、イングランドとスコットランドとアイルランドは、同一の君主を頂く同君連合でしたが、国としてはあくまで別々でした。

しかし1706年~1707年に「合同法( Acts of Union )」が可決され、イングランドとスコットランドが統一されて「グレートブリテン王国( Great Britain )」となりました。

アンは、グレートブリテン王国とアイルランドの女王として亡くなるまで君臨しました。

グレートブリテン王国誕生に至る発端は、王位継承法(1701)でもめたこと

イングランドとスコットランドの両議会とも、アンがウィリアム3世(およびメアリ2世)を継いで女王となることには同意していました。しかし、1701年にイングランド議会が定めた王位継承法について、スコットランド議会は反対でした。

この王位継承法は、王位継承者をプロテスタントに限るとする法です。このためジェームス1世/6世の嫡子たちの継承権が奪われ、ドイツに暮らす遠縁のソフィアおよびその息子ジョージが上位の継承権者となりました。

これまで同君連合となっていたイングランドとスコットランドでしたが、ここに来てスコットランド議会は「自国の国王は自国で決める」と主張しました。これに対しイングランド議会は、スコットランドに対して経済制裁や制限を課しました。スコットランドは大いに苦しみました。

イングランド議会は、経済制裁や制限を解く条件として、両国の合併を申し出ました。スコットランドは苦渋の決断を迫られ、1707年に合併に同意しました。

関連記事グレートブリテン王国の成立とハノーヴァー家への王位継承

ホイッグ VS トーリー

ホイッグ党( Whig )の多くは、議会が王位継承について取り決める権利があると信じており、女王と最も近縁にあたるプロテスタントの人物に王位継承権を授けるべきだと考えていました。

いっぽうでトーリー党( Tories )の多くは、血統を重んじる傾向があり、カトリックであってもステュアート王家の嫡子を支持する考えでした。

結局、カトリックであることを理由にステュアート王家の嫡子の王位継承権は剥奪され、1710年に、ソフィアとその息子ハノーヴァー家のジョージを、プロテスタントゆえに正統な王位継承予定者とすることが告知されました。

関連記事ホイッグ党とトーリー党

アン女王はトーリー党を支持

アン女王は、トーリー党の政治家を気に入る傾向がありました。イングランド国教会の信仰の在り方においてトーリー党の見解は、ホイッグ党のそれよりも、アン女王と近いものでした。

ホイッグ党はスペイン継承戦争( War of the Spanish Succession )を通じて権力を増していましたが、1710年にアン女王は多くのホイッグ党員を解任しました。

アン女王によるホイッグ党員の解任は、友人サラとの関係崩壊の要因になりました。

友人サラ

マールバラ公爵の妻であったサラ( Sarah Churchill, Duchess of Marlborough )は、アンが女王に即位する以前からの近しい友人でした。サラは政治に強い影響力を持ち、ホイッグ党を代理するような立場にさえなりました。夫であるマールバラ公爵の政界における出世も、サラに負うところがあったとさえ言われます。

アン女王によるホイッグ党員の解任は、友人サラとの関係崩壊の要因になりました。

サラは回顧録で、アン女王の人柄を悪く描写しました。これが長らく歴史家によって信じられてきましたが、20世紀の末頃から見直されはじめ、アン女王は再評価されています。

健康障害

アンはその人生でずっと、健康障害に悩まされました。とくに30代から悪化し、肥満にもなりました。合計で17回の妊娠にもかかわらず、その多くは流産または死産でした。もっとも長生きした息子も11歳で亡くなりました。

アン女王はステュアート王家( House of Stuart )最後の君主となりました。

王位継承

1701年に制定された王位継承法( Act of Settlement 1701 )によって、王家の血筋であろうともカトリック派には王位継承権が与えられないことが決まっていました。このため、アン女王が亡くなると、王位はハノーヴァー家のジョージ1世( George I )へと継がれました。ハノーヴァー家( House of Hanover )は、ドイツ(神聖ローマ帝国)に拠点をおく有力貴族の家系です。

地図

アスコット競馬場

1711年、馬が好きだったアン女王がアスコット競馬場を創設しました。

現在、アスコット競馬場には年間およそ60万人が訪れます。179エーカー(72ヘクタール)におよぶ敷地は、王家からの借地です。エリザベス2世女王も、年に数回、アスコット競馬場を訪れます。


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参考文献

A Brief History of British Kings & Queens
Robinson; UK ed.版 (2014/3/27)
Anne, Queen of Great Britain
Wikipedia | edited on 10 July 2022, at 12:47 (UTC)
Anne, queen of Great Britain and Ireland
By The Editors of Encyclopaedia Britannica | Updated: Feb 02, 2022
Queen Anne (1702 – 1714)
Britroyals | British Royal Family History

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