ジョージ1世は、ハノーヴァー( Hanover )の当主であり、選帝侯でもありました。母方からジェームス1世の血を引いています。アン女王が亡くなった1714年、54歳のジョージが、グレートブリテン王国およびアイルランド王国の王位を継承し、ジョージ1世として即位しました。
1715年に、ステュアート家による王位継承を支持するジャコバイトが蜂起しますが成功せず、ジョージ1世が廃位されることはありませんでした。
ジョージ1世のアイデンティティは外国人であり、英語を話さなかったこと手伝って、国政のほとんどを政府に任せることになりました。その影響で、イギリスの政治システムの近代化がはじまります。初の首相とみなされる地位についたのはロバート・ウォルポールです。
「南海泡沫事件」と呼ばれるバブル崩壊は、ジョージ1世の治世に起こりました。
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ジョージ1世(George I / George Louis)
治世 | 1714年8月1日-1727年6月11日(12年315日) |
継承権 | 王位継承法(Act of Settlement 1701) |
生没 | 1660年5月28日:Leineschloss 1727年6月11日(67歳):Osnabrück |
家系 | ハノーヴァー家(Hanover) |
父母 | Ernest Augustus of Brunswick-Lüneburg Sophia of Hanover |
結婚 | Sophia Dorothea of Brunswick-Lüneburg-Celle(1682年) |
子供 | ジョージ2世(George II) ソフィア(Sophia Dorothea, Queen in Prussia) |
埋葬 | Leineschloss のち Herrenhausen |
年表
1714 | ジョージ1世が即位:アン女王の遠縁にあたる。ハノーヴァー朝最初の国王。 |
新しい議会:ロバート・ウォルポールが率いるホイッグ党が優勢 | |
1715 | ジャコバイトの蜂起( Battle of Sheriffmuir ):ジェームス2世の息子ジェームス・エドワード(老僭王 / James Edward Stuart )を王位継承者として支持する人々が蜂起するが敗北 |
1716 | 7年法( Septennial Act ):議会の最長期間を3年(Triennial Act)から7年に延長。 |
1717 | ロバート・ウォルポールの辞任:ジョージ1世がタウンゼント(Townshend)を解任したことに引き続いて。 |
1719 | ロビンソン・クルーソー( Robinson Crusoe )の発行:ダニエル・デフォー著( Daniel Defoe ) |
1720 | 南海泡沫事件( South Sea Bubble ):多くの投資家が破産、経済危機 |
1721 | ロバート・ウォルポールが第一大蔵卿( First Lord of the Treasury )として復帰:初代首相( first Prime Minister )とみなされる地位 |
1722 | マールバラ公爵が死去( Duke of Marlborough ) |
1726 | 図書貸出( First circulating library ):詩人アラン・ラムゼー(Allan Ramsay)がスコットランドにイギリス初の図書館をオープン |
ガリバーの冒険( Gulliver’s Travels )の発行:ジョナサン・スウィフト著( Jonathan Swift ) | |
1727 | アイザック・ニュートン( Isaac Newton )亡くなる |
ジョージ1世の崩御:67歳 |
おもなできごと
ハノーヴァーで生まれる
ジョージ1世は、神聖ローマ帝国(現ドイツ)のハノーヴァー選帝侯のエルンスト・アウグスト( Ernest Augustus )の息子です。母ソフィア( Sophia )と祖母エリザベス( Elizabeth )を通じてジェームス1世/6世の血を引いています。
ジョージは、父や叔父から称号と土地( ブラウンシュヴァイク=リューネブルク / Duchy of Brunswick-Lüneburg )を継ぎました。
ヨーロッパで起こった継承戦争の結果、ドイツにおけるジョージの領土が拡大しました。
ジョージは1708年に、ハノーヴァー選帝侯となりました。
1714年、王位継承
1714年、グレートブリテン王国の女王アンが崩御するよりほんの少しだけ早く、ジョージの母であるソフィアが亡くなりました。このため、ジョージが「グレートブリテン王国およびアイルランド」の王位を継承しました。
これは1701年に定められた王位継承法( Act of Settlement 1701 )に基づく継承です。このときジョージ1世は、アン女王と最も近い “プロテスタントの” 血縁者でした。
ジャコバイトの蜂起(1715)
ジャコバイト※は、ジョージ1世を廃位してジェームス・エドワード・ステュアート( James Francis Edward Stuart ※)を王位に就けようと試みました。しかし、失敗に終わりました( Battle of Sheriffmuir )。
※ジャコバイト…ジェームズ2世およびその直系男子を正統な国王であるとして、その復位を支持し、政権を動揺させた人々の総称。ジャコバイトの語源はジェームズのラテン語名(Jacobus)。
※ジェームス・エドワード・ステュアート…アン女王の異母弟。カトリック教徒。
政治システムの近代化
ジョージ1世の時代に国王の権力は大幅に縮小されました。グレートブリテン王国(≒イギリス)の政治は、首相によって牽引される近代的な責任内閣制( parliamentary cabinet system )へと変わりはじめます。
ジョージ1世の治世においては、政治的な実権はロバート・ウォルポール( Robert Walpole )が握りました。イギリスで最初の「首相( prime minister )」とみなされている人物です。
内閣制 / 議院内閣制(cabinet system)
1721年にロバート・ウォルポールが組織した内閣が政治を主導したことにはじまります。ウォルポール内閣は1742年に総辞職しますが、このスタイルはイギリスの議会政治の慣習となり定着しました。
グレートブリテン王国の政治
ハノーヴァーにおいて、ジョージは絶対君主でした。軍や大臣のみならず、下位の政治家の任命権さえも、君主にゆだねられていました。しかし、グレートブリテン王国は違いました。ハノーヴァーとは対照的に、国王は議会を通じて政治を行わなければなりませんでした。
ホイッグ党の台頭
ステュアート家を支持する者の多いトーリー党を警戒したジョージ1世は、ホイッグ党員を重用しました。
1715年に大臣職に就いたのは、次の人物らです。
- ロバート・ウォルポール( Sir Robert Walpole )
- タウンゼント子爵( 2nd Viscount Townshend )※
- スタンホープ伯爵( 1st Earl Stanhope )
- サンダーラン伯爵( 3rd Earl of Sunderland )
※タウンゼント子爵…ロバート・ウォルポールの義理の兄弟にあたる
しかしホイッグ党内で内部分裂が起こります。1717年にタウンゼント子爵は解任され、ロバート・ウォルポールも党員と意見の不一致があり辞任しました。そしてこのあとスタンホープが外交を取り仕切るようになり、サンダーラン伯爵は国内政治において実権を握りました。
1719年、サンダーラン伯爵は「貴族の称号の授与に制限を設ける法案( Peerage Bill )※」を持ち出しました。貴族院のメンバを現行のままで固め、自身の権力を維持する狙いがありました。この法案は一部の既存貴族の支持を受けましたが、ウォルポールは巧みな反対演説を行い、またトーリー党の多くが反対しました。この法案は最終的に、庶民院で潰されました。
※貴族…公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の称号のいずれかを持つ者を「貴族」という。イギリスの議会には「貴族院」と「庶民院」があり、貴族院の議員になるには貴族であることが大前提となっている。貴族の称号は家系の長男のみに継がれるほか、国王から新たに称号を授かることによって貴族の仲間入りを果たすことができた。サンダーラン伯爵は、新たに称号を授与することを抑制し、都合のよい既存メンバを維持したい狙いがあった。(貴族院は現在も存在しているが、先祖代々の貴族のほかに、便宜的に制定された一代限りの男爵が議員となっている。)
翌年、ウォルポールが大臣に復帰し、内部分裂を収拾してホイッグ党政権を成立させました。
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南海泡沫事件
国の借金返済策として、1711年に官民提携の貿易会社「南海会社」が設立されていました。1719年に、国の債務を肩代わりした南海会社は、貿易よりもむしろ金融操作を行うことで、自社株をつり上げて利益をだしました。
南海会社をはじめ、いろいろな合資会社(≒株式会社)の株価が、実態に沿わない異常な値上がりをみせました。政府が一部の会社を裁いたことをきっかけに、このバブルが崩壊し、多くの投資家が破産し、経済危機を招きました。
南海会社の株価つり上げには、賄賂を受けた一部の政治家や貴族が関与していました。この事件の後処理を行ったのはロバート・ウォルポールです。
ウォルポールはイギリス初の首相として位置付けられています。
南海泡沫事件による経済危機( the South Sea Bubble )
1719年、南海会社( South Sea Company )が、国の債務を肩代わりすることを申し出て、引き換えに一部貿易の独占権を得ました。ところが貿易では思ったような利益が上がらず、南海会社は次第に金融業へとひそかに実態を変えてゆきます。
南海会社は、金融操作や誇大宣伝を行うことで、自社株をつり上げて利益をだしました。すると南海会社を真似て、株価の吊り上げだけを狙った実体のない株式会社が乱立しました。こうした会社は「泡沫会社」と総称されました。
南海会社も、買収された政治家も、南海会社の株価のみが上昇することが理想でした。そこで「泡沫法( Bubble Act )」という法案を通し、国王勅勅許をもたない泡沫会社を裁いて、ライバルを蹴落とすことにしました。しかしこれが裏目にでます。
市場の株価の値上がりがピタリと止まったあと、8月には売り注文が殺到するようになりました。これにつられて南海会社の株価も急落しました。南海会社の株券を担保にして借りたお金で、泡沫会社の株を買っていた人々が大勢いたからです。
貴族を含む投資家の多くが、破産しました。6月からハノーヴァーに滞在していたジョージ1世は、この危機を受けてイギリスに呼び戻されました。
国王ジョージとその閣僚が糾弾され、非常に不人気になりました。スタンホープ伯爵自身は潔白であったものの、貴族院での議論で多大なストレスを抱えたためか、まもなく亡くなりました。サンダーラン伯爵は辞任しました。
サンダーラン伯爵は、ジョージ1世に対する個人的な影響力は保ち続けましたが、1722年に突然亡くなります。これを機にロバート・ウォルポールがふたたび権力を握るようになりました。ウォルポールは「初の首相」と見なされる地位に就きました※。
※当時は首相( Prime Minister )という言葉はまだなく、ウォルポールが担ったのは第一大蔵卿( First Lord of the Treasury )と財務大臣( Chancellor of the Exchequer )。
ジョージ1世が南海会社から賄賂を受けていた、とする訴えもありましたが、証拠はありませんでした。むしろ投資に手をだしてバブル崩壊の損害を被っていたことが記されているそうです( Royal Archives )。
ウォルポールは、南海泡沫事件の後処理を行いました。事件に関与した人々を裁き、賠償させたことで、経済をいくぶんか回復させました。
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ハノーヴァーで崩御
ジョージ1世は、ハノーヴァーに赴いているときに、脳卒中を起こして亡くなりました。ジョージの遺体はハノーヴァーに埋葬されました。
治世の5分の1はハノーヴァーで過ごした
即位後にジョージ1世が故郷ハノーヴァーを訪れたのは、1716年、1720年、1723年、そして1725年の4回にわたり、国王としての治世の5分の1はハノーヴァーにいたことになります。
「国王は議会の許可なくして王国を離れてはならない」とする法がありましたが、1716年に満場一致で廃止されました。国王の留守を担ったのは、息子ジョージではなく、リージェンシーカウンシル( a Regency Council )でした。
地図
ハノーヴァー
ハノーヴァー選帝侯領は、神聖ローマ帝国内にありました。現在のドイツにハノーヴァーという地名が残っています。
18世紀~19世紀にかけての、ハノーヴァー家(正確にはブランズウィック・リューネブルク公爵家※)の領土は次のとおりです。
※ブランズウィック・リューネブルク公爵家…Duchy and Electorate of Brunswick-Lüneburg (Hanover)
参考文献
- A Brief History of British Kings & Queens
- Robinson; UK ed.版 (2014/3/27)
- Kings and Queens of England & Britain
- by Ben Johnson | Historic UK Ltd. Company
- George I of Great Britain
- Wikipedia | edited on 30 May 2022, at 14:25 (UTC)
- George I, king of Great Britain
- By The Editors of Encyclopaedia Britannica | Last Updated: Jun 7, 2022
- King George I (1714 – 1727)
- Britroyals | British Royal Family History
- Jacobitism
- last edited on 18 July 2022, at 23:56 (UTC)