ウィリアム3世※は、1650年にオレンジ公爵ウィリアム(オランイェ公爵ウィレム)としてオランダ共和国に産まれ、1689年からイギリス※の国王となった人物です。メアリ女王2世の王配としてイギリスを共同統治しました。
※ウィリアム3世…スコットランドではウィリアム2世。
※イギリス…当時のイギリスは、イングランド、スコットランド、アイルランドの3国の同君連合。
ウィリアム3世が国王として迎え入れられたのは、プロテスタント派だったためです。カトリック派のジェームス2世を廃したいイングランド議会の有力者がウィリアムを招聘し、イングランドおよびスコットランドで多数を占めるプロテスタント派がウィリアム3世を支持して、国王の挿げ替えを行いました。この出来事は、大規模な内戦や国王の処刑を伴わなかったことから、「名誉革命」と呼ばれています。
ウィリアム3世はメアリ2世の配偶者であったことに加えて、母方からステュアート王家の血も引いていました。
ウィリアム3世の治世の主なできごとは、ボイン川の戦い、大同盟戦争、ジャコバイトによる暗殺未遂事件などです。
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抜粋文:このページでは、4ヶ国すべての君主※を掲載しています。知りたい国家および年代を、目次から選択してジャンプしてください。 ※「イギリス」は正式名称を「グレートブリ.....
ウィリアム3世(William of Orange)
治世 | 1689年2月13日-1702年3月8日(13年24日) |
継承権 | チャールズ1世の孫 イングランド議会による招聘 |
生没 | 1650年11月4日:ハーグ(The Hague) 1702年3月8日(51歳):(Kensington Palace) |
家系 | オレンジ・ナッソー / オランイェ・ナッサウ(Orange-Nassau) |
父母 | William II of Orange Mary of England |
結婚 | Mary II of England(1677年) |
子供 | ー |
埋葬 | ウェストミンスター寺院(Westminster Abbey) |
年表
1689 | ウィリアム3世とメアリ2世の共同統治はじまる |
権利の章典の草案 | |
「権利の章典( Bill of Rights )」が議会を通過:カトリック信者は王位を継承できない。国王大権の制限。国王および女王は、議会の決定を差し止めることはできない。 国王および女王は、 議会の承認なしに課税できない。 | |
ハイランドのジャコバイトがジェームス2世を支持して蜂起:キリークランキーの戦い( Battle of Killiecrankie )で勝利。ダンケルドの戦い( Battle of Dunkeld )で敗戦。 | |
ジェームス2世に忠実なカトリック軍がフランスからアイルランドに上陸し、ロンドンデリー( Londonderry )を包囲。 | |
1690 | ボイン川の戦い( Battle of the Boyne ):ウィリアム3世の軍がジェームスとフランス軍を破る。 |
クロムデールの戦い( Battle of Cromdale ):スコットランドのジャコバイト軍がスコットランド政府軍に破れる。 | |
ビーチーヘッドの海戦( Battle of Beachy Head ):イングランド=オランダ連合軍がフランス軍に破れる。 | |
1691 | リムリック条約( Treaty of Limerick ):アイルランドでのカトリック信仰を自由化される。(ただしすぐにカトリック向け刑法の数々が制定される) |
ウィリアム3世による恩赦:スコットランドのジャコバイトがウィリアム3世に忠誠を誓うならば罪を問わない。 | |
1692 | グレンコーの虐殺( Glencoe Massacre ):マクドナルド氏族がキャンベル氏族によって虐殺される。虐殺の理由(建前)は、ウィリアム3世に忠誠を誓わなかったとするもの。 |
1694 | ウィリアム・パターソンがイングランド銀行を設立 |
メアリ2世の崩御 | |
1697 | レイスウェイク条約( Peace of Ryswick ):フランスとの戦争が終わる |
王室費法( Civil List Act )が通過 | |
1701 | 1701年王位継承法( The Act of Settlement )の制定:プロテスタント信仰のハノーヴァー家を王位継承権者として予定する |
ジェームス2世が亡命先のフランスで死去 フランス国王は、ジェームス2世の息子ジェームス( The Old Pretender )を3世として認知する | |
スペイン継承戦争( War of the Spanish Succession ):フランスとスペインが同君連合となることを阻止するため、ウィリアム3世は、イングランドとオランダとオーストリアの同盟を結ぶ | |
ウィリアム3世が落馬により崩御 亡命中のステュアート家と支持者はこれを祝う |
おもなできごと
オランダの最有力家系の出身
ウィリアムは、オランダのオレンジ公爵ウィリアム2世( William II, Prince of Orange )の唯一の息子です。母はチャールズ1世の長女メアリ( Queen Mary II )です。母方からステュアート王家の血を引いています。
ウィリアムの父は、ウィリアムが産まれる前に亡くなっていました。このため、ウィリアムは生まれた時からオレンジ公爵位を継いでいました。
ステュアート家のメアリと結婚
1677年、ウィリアムは従兄妹のメアリ( Queen Mary II )と結婚します。メアリは、母方の叔父であるジェームス(のちのジェームス2世)※の長女です。
※ジェームス( James, Duke of York )…のちのジェームス2世。チャールズ1世の弟で、当時はヨーク公爵。
ウィリアムはプロテスタント派
カトリック大国フランスのルイ14世( Louis XIV )に抗うため、ウィリアム3世はいくつかの戦争に参戦しました。多くのプロテスタント派が、ウィリアムを「プロテスタント派の象徴」ととらえました。
義父/叔父のジェームス2世はカトリック派
1685年、カトリック派の叔父ジェームスが、ジェームス2世としてイングランドおよびスコットランドとアイルランドの王位に就きました。ジェームス2世の治世は多数派をを占めるプロテスタント派から不評でした。プロテスタント派の人びとは、カトリック信仰の復活を恐れました。
名誉革命:イングランド議会に招聘されて侵入
影響力をもつイギリスの政治家および聖職者の後ろ盾を得て、ウィリアムはイングランドに侵入しました。のちに「名誉革命( Glorious Revolution )」として知られることになる重要な出来事です。
1688年にウィリアムが南西イングランドのブリックハム( Brixham )に上陸してまもなく、ジェームス2世は廃位させられました。
ウィリアム3世の ”プロテスタントとしての強固な姿勢” は人気が高く、メアリ2世と揃って権力を握りました。
ボイン川の戦い
1690年、ジェームス2世に忠誠を誓う人々と、ウィリアム3世を支持する人々の間で戦いが行われました。場所はアイルランドのドロヘダ( Drogheda )に近いボイン川( River Boyne )流域です。この戦いはウィリアム3世の勝利に終わりました。カトリック派が多いアイルランドではジェームス2世に期待がかけられていましたが、ジェームス2世は亡命し、二度と戻ることはありませんでした。
アイルランドにおけるウィリアム3世の戦い( Williamite War in Ireland )は、ジェームス2世が亡命したあともつづき、1691年にリムリック条約( Treaty of Limerick )を結んで終結しました。
大同盟戦争
ウィリアム3世の治世の前半、ウィリアムは大同盟戦争( Nine Years’ War 1688 – 1697 )のためイングランドから離れていました。この間、イギリスの政治はメアリ2世に任されましたが、彼女は1694年に亡くなりました。
ジャコバイトの陰謀
1696年、ジャコバイト( Jacobites )※がウィリアム3世の暗殺を企てましたが、内通者によって陰謀が事前に明るみにでました( Jacobite assassination plot )。
※ジャコバイト…廃位させられたジェームス2世とその子孫に忠誠を誓う人々。
プロテスタント派の危機
ウィリアム3世には子供がありませんでした。メアリ2世の妹アンには複数の男児がいましたが、ほとんどが幼くして亡くなり、最後のひとりであったグロチェスター公爵ウィリアム( Prince William, Duke of Gloucester )も1700年に亡くなりました。
このため、プロテスタント派による王位継承に危機がおとずれました。この危機を回避するために選ばれたのが、王家の遠縁にあたるハノーヴァー家( Hanoverians )です。1701年の王位継承法( Act of Settlement 1701 )によって、ステュアート家のプロテスタント君主亡きあとの王位継承先が確保されました。
ウィリアム3世の崩御
落馬事故が原因で、1702年にウィリアム3世は亡くなりました。王位は、ウィリアム3世の義妹でありメアリ2世の実妹であるアンに継がれました。
いっぽうオレンジ公爵位は、オランダのジョン・ウィリアム・フリソ( John William Friso )に継がれました。
ボイン川の戦い
ボイン川の戦いが行われたフィールドです。ウォーキングコースが敷かれています。「ボイン川の戦いビジターセンター」も近くにあります( Battle of the Boyne Visitor Centre )。
おまけ
「クロムデールの戦い(1690)」の詩を歌っている映像です。ジャコバイトはクロムデールの戦いに敗戦したのですが、勝利したとする噂を流し、このときに作られた歌が有名になって現在まで残っています。
奇妙なことにこの歌詞では、 この戦いの40年前に亡くなっているモントローズ侯爵( James Graham )がヒーローとして登場しており、また敵陣を率いているのは30年以上前に亡くなっているオリバー・クロムウェル( Oliver Cromwell )になっています。
参考文献
- A Brief History of British Kings & Queens
- Robinson; UK ed.版 (2014/3/27)
- Kings and Queens of England & Britain
- by Ben Johnson | Historic UK Ltd. Company
- William III of England
- Wikipedia | edited on 19 July 2022, at 07:05 (UTC)
- https://www.britroyals.com/rulers.asp
- Britroyals | British Royal Family History