ジェームス2世 / 7世(James II / VII)
       

ジェームスは、イングランドおよびアイルランドの国王としてジェームス2世、スコットランドの国王としてはジェームス7世です。亡き兄王チャールズ2世を継いで1685年2月6日に国王として即位しました。ジェームス2世/7世は、1688年の名誉革命で廃位させられます。

ジェームス2世/7世は、カトリック派の最後の国王です。プロテスタント派の国王が望まれた時代においてジェームス2世/7世は、カトリック派に対する寛容な政策を採り、問題となりました。王権神授説を信じ専制君主的に振る舞ったことも関係し、政治的な混乱を招きました。

ジェームス2世/7世の廃位は、1世紀におよぶ「国王 VS 議会」の抗争の結果でもあり、議会の優位性が証明される出来事となりました。

関連記事【歴代】イギリスの君主(国王・女王)一覧
抜粋文:このページでは、4ヶ国すべての君主※を掲載しています。知りたい国家および年代を、目次から選択してジャンプしてください。 ※「イギリス」は正式名称を「グレートブリ.....

Advertisement

ジェームス2世 / 7世(James II / VII)

ジェームス2世
出典 Wikimedia Commons
治世1685年2月6日-1688年12月23日
(3年321日)※廃位
継承権チャールズ1世の息子
生没1633年10月14日:St James’s Palace
1701年9月16日(67歳):Château de Saint-Germain-en-Laye
家系ステュアート家()
父母Charles I
Henrietta Maria of France
結婚Anne Hyde(1660年)
Mary of Modena(1673年)
子供Charles, Duke of Cambridge
メアリ2世(Mary II, Queen of England
James, Duke of Cambridge
アン女王(Anne, Queen of Great Britain
Charles, Duke of Kendal
Edgar, Duke of Cambridge
Isabel Stuart
Charles, Duke of Cambridge
James Francis Edward Stuart(the Old Pretender)
Louisa Maria Stuart ほか

以下、非嫡出:
Henrietta FitzJames
James FitzJames, 1st Duke of Berwick
Henry FitzJames
Catherine Sheffield, Duchess of Buckingham and Normanby
ほか
埋葬Church of the English Benedictines
ジェームス2世

年表

1685兄チャールズ2世を継いでジェームス2世(スコットランド王としては7世)が即位
アーガイル伯爵がスコットランドで蜂起( Argyll’s Rising ):チャールズ2世の非嫡出子であるモンマス公爵ジェームス( Duke of Monmouth )の王位継承を画策。鎮圧され、伯爵(Earl of Argyll)は処刑される。
セッジムーアの戦い( Battle of Sedgemoor ):モンマス公爵がジェームス2世にふたたび反乱を起こすが敗戦。
ナントの勅令( Edict of Nantes ):フランスにてユグノー(プロテスタントの一派)の自由が取り消されたため、多数のユグノー職人や貿易商がイングランドに拠点を移した。
1686モンマス公爵の処刑:セッジムーアの戦いに敗れた反乱勢が死刑もしくは流刑に処される( Bloody Assizes )。
ジェームス2世がイングランドにカトリック信仰を復活させる:ロンドンに近いハウンズロー( Hounslow )に13,000の兵を配備し威圧
エドモンド・ハレー( Edmund Halley )が初の天気図を描く
1687ニュートン( Isaac Newton )の『自然哲学の数学的諸原理( Philosophiæ Naturalis Principia Mathematica )』 
ジェームス2世による「信仰の自由宣言( Declaration of Indulgence )」:カトリック派に対する緩和、議会でカトリック派を優遇、トーリー党の追放、イングランド国教会の聖職者の追放
1688ジェームス2世の妃メアリが、息子を出産:カトリック信仰の王位継承予定者(James Francis Edward Stuart
7人の貴族の手紙(Invitation to William):オランダ総督オランジュ公ウィリアムへ新国王として迎える旨の手紙を送る
名誉革命( Glorious Revolution ):オランジュ公ウィリアムが軍隊と共にブリックハム( Brixham )に上陸しロンドンへ。ジェームス2世の軍隊のプロテスタント派将校がウィリアムを支援。
ジェームス2世の追放:フランスへ亡命
ジェームス2世の治世の年表

おもなできごと

即位

ジェームス2世/7世の即位は3国で広く支持されました。支持の根拠は血統の適格性によるところが大きいものでした。

※3国…イングランド、スコットランド、アイルランド

ジェームス2世 / 7世の信仰はカトリック

ジェームス2世/7世が個人的にカトリックを信仰することは容認されましたが、一般のカトリック信者への規制が緩むことはありませんでした。 ジェームス2世/7世が試みた寛容政策はイングランドおよびスコットランドの議会で否決されました。

ジェームス2世/7世が廃位に至ったのは「ジェームス2世の教派」と「議会で多数派の教派」が一致しなかったためですが、これは単なる信仰の問題ではなく政治的な影響が強かったと、一部の学者は提唱しています。

名誉革命に至る決定的な出来事2つ

名誉革命に至る重要な2つの出来事が1688年に起きました。

I. ジェームス2世が投獄した7人の主教が無罪判決
ジェームス2世は意のままにならない議会を解散し「信仰の自由」を宣言しました。これはカトリック派に対する制限を緩和するもので、イングランドの各教会にて読み上げるよう命令が下りました。これに対して「王権の乱用である」と異議を申し立てた7人の主教がビラを撒き、「反乱を扇動した」としてジェームス2世によってロンドン塔に投獄されました。
しかし裁判において、主教の無罪が確定しました。これはイングランドにおけるジェームス2世の政治的権威の失墜を意味しました。
※当時の教派は政治への影響が大きく、支配者層は純粋な信仰心のほかにも考慮すべきことが多くあった。
II. ジェームス2世に息子が誕生( James Francis Edward
ジェームス2世には、プロテスタント教育を受けて育った娘メアリがいました。多くの人びとがメアリを王位継承者と目論んでいました。そのため、カトリック派のジェームス2世の治世には目をつむってやり過ごそうとしていたのです。
ところがここに誕生した男児は、上位の王位継承予定者となり、カトリック教育を受けて育つであろうことがほぼ間違いありませんでした。国教会派およびプロテスタント派の人びとは警戒を強めました。
※メアリ…ジェームス2世の娘でオランダの総督オランジュ家ウィリアムに嫁いでいた。

イングランドおよびスコットランドの反カトリック派の多くが、「国王の廃位が、内戦を防ぐ唯一の手段である」と考えるようになりました。

ジェームス2世の亡命とウィリアム3世の即位

政界の主要メンバは、オランジュ公爵ウィリアム( William of Orangeを新国王として招聘することに決め、実行に移しました。

※オランジュ公爵ウィリアム…オランダ共和国で世襲の総督職を務める貴族。ジェームス2世の娘メアリが嫁いだ夫。メアリ女王の即位に伴い、ウィリアムは「王配」となる。

1688年11月にウィリアムがブリックハム( Brixham )に上陸すると、ジェームス2世は軍隊に見捨てられました。翌月、ジェームス2世はフランスに亡命します。

1689年2月に仮議会( Convention Parliament )が開かれ、ジェームス2世が ”空けた” 王位に、ウィリアム3世とメアリ2世を共同統治者として据えました。これは、国王がその ”生まれ” によってではなく “議会” によってもたらされるという新たな事例となりました。

王位奪還を図るも敗退

ジェームスは1689年3月14にアイルランドに上陸し、王権の復活を図りました。スコットランドでもジャコバイトが蜂起( Jacobite rising of 1689 )しましたが同国の政府に敗戦し、1690年の「ボイン川の戦い( Battle of the Boyne )」においてもウィリアム3世を支持する連合軍に敗戦しました。

※ジャコバイト…ジェームズ2世およびその直系男子を正統な国王であるとして、その復位を支持した人々。ジャコバイトの語源はジェームズのラテン語名(Jacobus)。

余生

ジェームスはフランスに戻り、ルイ14世の保護のもとサン=ジェルマン( Saint-Germain )で余生を送りました。

ジェームス2世は、反対派から「暴君」として描かれてきましたが、20世紀初頭の歴史家には彼を「宗教に寛容な人」として称賛する人もありました。近年の歴史家は、いずれに偏ることもなく、こうした見解の中間に位置する傾向にあります。

地図

サンジェルマン宮殿

亡命したジェームス2世が余生を過ごした場所です。


Advertisement

参考文献

A Brief History of British Kings & Queens
Robinson; UK ed.版 (2014/3/27)
Kings and Queens of England & Britain
by Ben Johnson | Historic UK Ltd. Company
James II of England
last edited on 29 June 2022, at 10:49 (UTC) | Wikipedia
James II, king of England, Scotland, and Ireland
By John P. Kenyon | Britannica |Updated: Oct 10, 2021
King James II (1685 – 1688)
Britroyals, British Royal Family History

チャールズ2世(Charles II)
チャールズ2世(Charles II)
チャールズ2世は、処刑されたチャールズ1世の息子です。オリバー・クロムウェルの死と、リチャード・クロムウェルの失脚に続いて護国卿政権が崩壊すると、再構成された議.....
ウィリアム3世(William of Orange)
ウィリアム3世(William of Orange)
ウィリアム3世※は、1650年にオレンジ公爵ウィリアム(オランイェ公爵ウィレム)としてオランダ共和国に産まれ、1689年からイギリス※の国王となった人物です。メ.....
【歴代】イギリスの君主(国王・女王)一覧
【歴代】イギリスの君主(国王・女王)一覧
このページでは、4ヶ国すべての君主※を掲載しています。知りたい国家および年代を、目次から選択してジャンプしてください。 ※「イギリス」は正式名称を「グレートブリ.....
       
?>