チャールズ2世は、処刑されたチャールズ1世の息子です。オリバー・クロムウェルの死と、リチャード・クロムウェルの失脚に続いて護国卿政権が崩壊すると、再構成された議会によってチャールズがイングランド国王として迎え入れられました。
武勇に優れるでもなく、政治政策に長けるでもなかった国王ですが、人気がありました。側室とのあいだに多くの私生児が産まれていますが、妃との間に子供を授かることはなく、チャールズ2世亡き後の王位は弟のジェームスに継がれました。
ホイッグ党とトーリー党はチャールズ2世の治世に形成されました(1678)。黒死病の再流行(1665)や、ロンドン大火(1666)も、チャールズ2世の治世に起きた災害です。
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チャールズ2世(Charles II)
治世 | 1660年5月29日-1685年2月6日(24年254日) |
継承権 | チャールズ1世の息子 王政復古 |
生没 | 1630年5月29日:St James’s Palace 1685年2月6日(54歳):Whitehall Palace |
家系 | ステュアート家(Stuart) |
父母 | チャールズ1世(Charles I) ヘンリエッタ(Henrietta Maria of France) |
結婚 | Catherine of Braganza(1662) |
子供 | *すべて非嫡出子 モンマス公爵ジェームス(James Scott, 1st Duke of Monmouth) Charlotte FitzRoy, Countess of Yarmouth Charles FitzCharles, 1st Earl of Plymouth Catherine FitzCharles Charles FitzRoy, 2nd Duke of Cleveland Henry FitzRoy, 1st Duke of Grafton Charlotte Lee, Countess of Lichfield George FitzRoy, 1st Duke of Northumberland Charles Beauclerk, 1st Duke of St Albans Charles Lennox, 1st Duke of Richmond Lady Mary Tudor |
埋葬 | Westminster Abbey |
年表
1658 | オリバー・クロムウェルが死去 リチャード・クロムウェルが護国卿を継承 |
1659 | リチャード・クロムウェルが強制され辞任 |
1660 | チャールズ2世、オランダからイングランドに帰還し即位 |
王立学会( Royal Society )の設立 | |
1662 | 統一法( Act of Uniformity ):ピューリタンに「イングランド国教会」の教義の容認を強制、従わなければ破門 |
1664 | イングランドが北アメリカの「オランダ領ニューアムステルダム」を掌握し、「イングランド領ニューヨーク」に名を改める |
1665 | 第二次英蘭戦争ぼっ発( the Second Anglo-Dutch War ) |
黒死病の流行、ロンドンで6万人の死者 | |
1666 | ロンドン大火( The Great Fire of London ):3晩4日の大火事で、ロンドン中心部の3分の2が焼失し、6万5千人が住まいを失う |
1667 | クラレンドン伯エドワード・ハイド(Earl of Clarendon)に代わって、5人の政治家がチャールズ2世に影響力をもつ( Cabal ) |
ジョン・ミルトンの「失楽園( Paradise Lost )」が発行される | |
オランダ艦隊がメッドウェイ川をのぼりイングランドの旗艦( The Royal Charles )を拿捕し他3隻を沈没させる | |
1670 | ドーバーの密約( Secret Treaty of Dover ):フランス14世からの資金提供への見返りとして、チャールズ2世は自信がカトリック信者であることを宣言し信仰をイングランドに復活させることを約束 |
ハドソンベイ会社( Hudson Bay Company )が北アメリカに設立される | |
1671 | 王室の財宝を盗もうとしたトマス・ブラッド( Thomas Blood )が捕まる |
1672 | 第三次英蘭戦争:ソールベイの海戦( Naval battle of Solebay ) |
1673 | 審査法( Test Act ):政界人への宗教審査、カトリック信者を迫害する目的 |
1674 | ジョン・ミルトン死去 |
オランダと和約 | |
1675 | グリニッジ天文台( Royal Observatory )が建てられる |
1677 | ジョン・バニヤンが「天路歴程( The Pilgrims Progress )」を発行 |
1678 | タイタス・オーツ(Titus Oates)によるカトリック陰謀事件( Popish Plot ) 「国王暗殺とカトリック復活」が企てられているとする陰謀が捏造され、警戒した政府などが多くのカトリック教徒を迫害 |
1679 | 王位排除法案( Exclusion Bill ):カトリック教徒ジェームスの王位継承を阻む試み |
人身保護法( Habeas Corpus act ):裁判なしの拘留や投獄の禁止 | |
1682 | ウィリアム・ペン( William Penn )がアメリカにペンシルバニアを建設 |
1683 | ライハウス陰謀事件( Rye House Plot ):国王および王弟の暗殺未遂事件 |
1685 | チャールズ2世、死の床でローマカトリック教会に改宗 |
おもなできごと
父チャールズ1世の処刑後、スコットランド国王として即位するもクロムウェルに敗戦し亡命
イングランド内戦の結果、1649年1月30日にチャールズ1世が処刑されました。
2月5日、スコットランド議会がチャールズ2世を国王とすることを宣言するいっぽうで、イングランドは空位時代を迎え、オリバー・クロムウェルが率いる共和制/護国卿政権国家が誕生しました。
チャールズ2世はクロムウェルに立ち向かいましたが、1651年9月の「ウスターの戦い( Battle of Worcester )」に破れて、大陸に亡命することになりました。
クロムウェルはイングランド、スコットランド、アイルランドを掌握し、「独裁者」とも評されうる地位を確立しました。チャールズ2世はのち8年余りを、フランス、ネーデルラント連邦共和国(おおむね現オランダ)、スペイン領ネーデルラント(おおむね現ベルギー)で過ごしました( fled to mainland Europe )。
第一回亡命期
イングランド内戦がぼっ発したとき、チャールズ(のち2世)は12歳でした。1645年には、わずか14歳で父にともなって戦場に赴き、ウエストカントリー( West Country )で隊の指揮を任されています。
戦況が悪くなるとチャールズは賢明にもイングランドを去って大陸に逃れました。(1649年4月、亡命先でジェームスという名の私生児が産まれています。のちにモンマス公爵となり、王位継承を主張する人物です。)
父王の処刑(1649年)を知ったチャールズが国外から自身の即位を主張すると、スコットランド議会はいくらかの条件と引き換えにこれを受け入れました。スコットランドに上陸したチャールズ2世は権力を確立していませんでしたが、その存在自体がイングランドから危険視されました。
イングランド共和国との対戦
1650年9月の「ダンバーの戦い( Battle of Dunba )」において、スコットランド軍は、クロムウェル率いるイングランド共和国軍に大敗し、エジンバラ( Edinburgh )を占拠されます。
1651年9月の「ウスターの戦い( Battle of Worcester )」はチャールズ2世も率い、スコットランド軍とイングランドの王党派が共闘しました。しかしクロムウェル率いるイングランド共和国に大敗を喫します。
チャールズは運よくシャロップシャー( Shropshire )に逃げ延び、ここでヨーマン身分のリチャード・ペンデレル( Richard Penderel )の助けを借りて、数週間後にフランスに逃げ落ちました。この際、召使に扮装して逃げ延びたとする逸話もあります。
第二回亡命期
「ウスターの戦い」に敗戦したチャールズは、のち8年あまりを大陸で過ごします。この間に、共和制/護国卿制イングランドは、対オランダ戦( 1652–54 )および対スペイン戦( 1654–60 )を繰り広げました。チャールズ2世はこの混乱を利用して、支持をとりつける根回しを怠りませんでした。
イングランドとスコットランドはクロムウェルの支配下で制度を変え、1653年に護国卿となったクロムウェルは絶対的な権力を保持しました。実際にクロムウェルに対し「国王の称号」を提案する一派もいたほどです。
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クロムウェル政権の崩壊と王政復古
1658年にオリバー・クロムウェルが亡くなってから、イングランドの政情は不安定になり、結果的に「王政復古( restoration )」がなされました。
チャールズ2世は1660年5月29日(30歳の誕生日)にイングランドに帰還し、歓迎ムードで迎え入れられました。
オリバー・クロムウェル死後の不安定な政情
オリバー・クロムウェルの死後は、オリバーの息子リチャード・クロムウェルが護国卿を引き継ぎました。しかしリチャードには、対立しあう軍と議会を統制できるだけの威厳がなく、1659年には辞任を余儀なくされました。
その後イングランドには、暫定軍事政権が敷かれます。しかし多くの者が軍事政権には反対で、スコットランド司令官(総督)のジョージ・マンク※に救援を要請しました。ジョージ・マンクは、ロンドンに入城すると、共和制を求める議員に加えて王党派の議員も議会に復帰させ、王政復古への流れを作りました。
※ジョージ・マンク( George Monck )…オリバー・クロムウェルによって、1654年からスコットランド司令官(総督) に任命されていた人物。
チャールズ2世の戴冠式は1661年に、新しいレガリア※を身に着けて行われました。旧来の王冠や宝飾品は、共和国時代に破壊されていたためです。
※レガリア( regalia )…王権などを象徴し、それを持つことによって正統な王、君主であると認めさせる象徴となる物品。
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クレランドン法
チャールズ2世治世下のイングランド議会では非国教徒を規制する一連の法案が可決されました。この法案は「クレランドン法※」として知られています。しかしチャールズ1世自身は、教派については寛容でありたい考えでした。
※クレランドン法( Clarendon Code )…クレランドン伯爵の名を借りてつけられたが、実際には議会の保守的国境徒によって推進されたもので、クレランドン伯爵自身は不寛容政策には反対だった( Edward_Hyde, 1st Earl of Clarendon )。
「英蘭戦争」と「ドーヴァーの密約」
チャールズ2世の治世の初期に「第二次英蘭戦争※」がぼっ発しました。
1670年1月には、チャールズ2世とフランス国王ルイ14世の間で「ドーバーの密約」が結ばれます。オランダと敵対するルイ14世は「第三次英蘭戦争※」でチャールズ2世と組み、個人的な金銭支援を行うことも約束しました。この見返りとしてチャールズは、将来カトリックに改宗することを約束しました。
※第二次英蘭戦争( Second Anglo-Dutch War / 1665-1667)…イングランドとオランダ共和国の戦い。制海権と交易ルートをめぐる争いとして、また政治的な諸事情の結果として、オランダから宣戦布告。イングランド優勢ではじまりオランダの勝利で終わり、ブレダ講和条約(Treaty of Breda)がむすばれた。
※第三次英蘭戦争( Third Anglo-Dutch War )…a naval conflict between the Dutch Republic and England, in alliance with France. It is considered a subsidiary of the wider 1672 to 1678 Franco-Dutch War.
1672年、チャールズ2世は「信仰自由宣言( Royal Declaration of Indulgence )」を発し、カトリック教徒および反プロテスタントの解放を試みました。しかし、イングランド議会によって、撤回するよう強制されました。
ドーバーの密約(Secret Treaty of Dover)
チャールズ2世とフランス国王ルイ14世の間で交わされた密約の内容と狙いは、おおまかに次のとおりです。
- チャールズ2世
- 頃合いを見て自身がローマカトリック教会に改宗することを約束
- 4000人の兵を送って仏蘭戦争を支援することを約束
- 密約の狙いは、自身の甥にあたるオランダのウィリアム※をオランダの主権者につけること
- ルイ14世
- チャールズ2世に金銭的支援(年 £230,000 )を約束
- チャールズ2世が改宗を公表したときに追加の金銭支援を約束
- チャールズ2世に対する反乱が起こ北場合には6000人の援軍を送ることを約束
- 密約の狙いは、オランダ征服
※オランダのウィリアム…のちのイングランド国王ウィリアム3世。オランイェ公ウィリアム3世。オランダ貴族に嫁いだチャールズ2世の姉メアリの息子。
「カトリック陰謀事件」の影響で「ホイッグ党」と「トーリー党」が形成される
1678年から81年にかけて「カトリック陰謀事件( Popish Plot )」と呼ばれる事件が起こりました。カトリック教徒がチャールズ2世の暗殺を企てているという噂が広まり、世間の反カトリック感情を煽ることになった事件です。
この影響で、議会では「王位排除法案( Exclusion Bills )」が可決されました。カトリックに改宗していた王弟ジェームス( James, Duke of York )を王位継承権者のリストから除外するというものです。
ただしこの法は2年後に撤廃されます。さらに、カトリックによる陰謀論は、タイタス・オーツ( Titus Oates )によってねつ造されたデマであることが、のちに判明しました。
この一連の出来事が残したものは、ふたつの党派です。ホイッグ党とトーリー党は、この時期に形成されました。
なお、のちに国王となったジェームスはオーツを投獄しています。
1683年、チャールズ2世と王弟ジェームスの殺害を企てた「ライハウス陰謀事件( Rye House Plot )」が発覚します。ホイッグのリーダー数名が、処刑されるか、亡命を余儀なくされました。
ライハウス陰謀事件
1683年に起きたライハウス陰謀事件 ( Rye House Plot ) は、国王チャールズ2世と、その後継者と目される弟ジェームス( James, Duke of York )の暗殺計画です。国王一行の行程が変わったため、未遂で終わりました。
ライハウス陰謀事件
国王の一行は、競馬鑑賞のためにウェストミンスター( Westminster )からニューマーケット( Newmarket )へ出向いており、4月1日に帰途につく予定でした。しかし3月22日にニューマーケットで大火事※があり、競馬は中止になりました。このため、国王一行は予定よりも早くウェストミンスターに戻り、このため暗殺計画が実行されることはありませんでした。
※大火事…町が半焼する大規模火災だった。
以後、亡くなるまで専制政治
1681年に、チャールズは議会を解散しました。1685年に亡くなるまで、議会なしで統治を行いました。チャールズ2世は死の床でカトリックに改宗したと伝えられています。
チャールズ2世は、比較的人気の高い国王とされてきました。チャールズ2世は活気と快楽にあふれる宮廷生活でも知られています。数名の側室と少なくとも12人の私生児をもうけていますが、妃との間に子供を授かることはありませんでした。
チャールズ2世が亡くなると、王弟ジェームスが即位しました。
地図
ニューマーケット
ニューマーケットは中世に市場開催権を与えられたマーケットタウンのひとつです。サラブレッド競馬の発祥の地とされています。イギリスで最も大きなトレーニングセンターがあります。
この地にジェームス1世が宮殿を建てて以来、チャールズ1世および2世をはじめ王室の拠点のひとつとなりました。
参考文献
- Kings and Queens of England & Britain
- Historic UK Ltd. Company | by Ben Johnson
- Charles II
- Wikipedia | edited on 1 June 2022, at 16:55 (UTC)
- Charles II
- Britnnice | By Henry Godfrey Roseveare | Updated: May 25, 2022
- King Charles II (1660 – 1685)
- Britroyals | British Royal Family History
- A Brief History of British Kings & Queens
- Robinson; UK ed.版 (2014/3/27)