リチャード・クロムウェル(Richard Cromwell)
       

リチャード・クロムウェルはオリバー・クロムウェルの三男(生存者のなかで長男)です。第二代護国卿に就きました。父とは異なり軍事経験に乏しく、ニューモデル軍からの尊敬と信頼を得ることができませんでした。軍の統制をとることができず、また共和制の復活を求めた人びとによって最終的に辞任に追い込まれます。

リチャードの辞任後、国はわずかな共和制の期間を経ますが、再構成された議会によって国王が呼び戻されると王政が復活しました。リチャードは大陸に亡命したのち、ひっそりとイングランドに戻り余生を過ごしました。

※処刑されたチャールズ1世の息子、チャールズ2世

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リチャード・クロムウェル(Richard Cromwell)

護国卿は「国王」ではありませんが、空位期間を埋める代表的な地位なので、例外的に 君主一覧 に掲載しています。

リチャード・クロムウェル
出典 Wikimedia Commons
治世
護国卿
1658年9月3日-1659年5月7日(0年247日)
継承権
生没1626年10月4日:Huntingdon
1712年7月12日(85歳):Cheshunt
家系
父母オリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell
エリザベス・ブルシエ(Elizabeth Bourchier
結婚Dorothy Maijor(1649年)
子供Edward Cromwell
Elizabeth Cromwell
Anne Cromwell
Mary Cromwell
Oliver Cromwell
Dorothy Cromwell
Anna Cromwell Gibson
Dorothy Cromwell Mortimer
埋葬Hursley
リチャード・クロムウェル

年表

1658オリバー・クロムウェルの息子リチャードが護国卿を継承
オリバー・クロムウェルの葬儀( Westminster Abbey )
1659リチャード・クロムウェル、護国卿を辞任
1660イングランドに王政復古、チャールズ2世の即位
1661王党派がオリバー・クロムウェルの遺体を掘り起こし、吊るして斬首
護国卿時代末期と王政復古

おもなできごと

護国卿に就任

1658年9月3日、護国卿オリバー・クロムウェルが亡くなり、息子であるリチャードが護国卿を継承しました。国内およびヨーロッパにおいて、この継承はおおむね問題なく受け入れられました。

しかし、ニューモデル軍の一部の将校は違いました。また「護国卿政権」そのものは「共和主義者( republican / Commonwealthsmen )」から激しい反対にあっていました。

軍人から信用されない護国卿

戦場に出た経験をほぼもたないリチャードは、兵士から父オリバーのような信頼と忠誠を得ていませんでした。将校らは「護国卿とは別に、軍人の中から”最高司令官”を任命するよう」求めました。

兵士らが個々に抱いていた「リチャードへの不満」は、共和主義者が手伝っていっそう広まり深まりました。

国務会議のメンバが分裂し対立

父オリバー・クロムウェルから引き継いだ国務会議( Council of State )の13人のメンバが、2つのグループに分裂しました。

軍人グループ
フリートウッド(Fleetwood)およびディスブロウ(Disbrowe)が率いる
※フリートウッド(Charles Fleetwood)…オリバー・クロムウェルの死後、当初は後継のリチャード・クロムウェルを支持していたが、見解を変える。リチャードとは義理の兄弟にあたる。
※ディスブロウ(John Disbrowe)…当初からリチャードを嫌っていた軍人。リチャードの叔母の夫にあたる。
文民グループ
サーロー( John Thurloe )が率いる

軍人グループは、文民グループがリチャードを都合よく操るのではないかと疑いを強めてゆきました。

一部の軍人とは友好関係を築く

別の一部の上級将校(WhalleyGoffeHoward など)はリチャードを支持しました。またリチャードは、スコットランド司令官のジョージ・マンク( General Monck )や国務会議長官のサーローとも、友好な関係を築くことができました。

リチャードは弟ヘンリー・クロムウェル( Henry Cromwell )をアイルランド司令官に任命し、現地での全権を与えました。

議会の招集から強制解散まで

財政を立て直すべく、リチャードは護国卿期第三回議会(リチャードの代では最初)を招集しました(1659 / Third Protectorate Parliament)。

「軍将校」と「保守派」の対立

議会においても「軍の将校」と「保守派」の対立が生じており、保守派が軍人ウィリアム・ボトラー( William Boteler )を弾劾したことで、決定的なものになりました。

※隠れ王党派を含む

ウィリアム・ボトラーの弾劾

クロムウェルの時代に「軍政監」という制度が敷かれたことがありました。軍人が各地を監督する制度です。軍政監の任務は管区内の反乱や陰謀を摘発(とくに王党派を警戒)したり、ピューリタンの道徳の遵守を徹底させることでした。

軍政監のひとりだったウィリアム・ボトラーは、このとき王党派の人間を不用意に虐待していたとして、保守派から弾劾されました。

軍将校による議会の解散要求、リチャードの不信任が露呈

議会では「軍隊の再構成と新しい軍制度の導入」が議題となりました。これを受けて将校フリートウッドとディスブロウらは、議会の解散を要求しました。

リチャード、軍の統制をとれず

軍の高官からの指令を受け、ロンドンの各地に配置されていた兵士がセントジェームス宮殿( St James’s )に集結しました。そこでリチャードはその兵士らに「護国卿の要請に応えてホワイトホール( Whitehall )に集結するよう」呼びかけました。しかし兵士は一同揃って、リチャードではなく軍の高官に従うことを選びました。

4月21日、フリートウッドはホワイトホールでリチャードと対峙しました。フリートウッドはいまいちど「議会の解散」を要求し、さらに「リチャードが軍に従うこと」を求めました。不本意ながらリチャードはこれに同意します。

護国卿期第三回議会は1659年4月22日に解散し、政府は軍の将校によって支配されることになりました。

残部議会の復活と護国卿政権の終焉

リチャードはホワイトホールに捕らわれの身となりました。フリートウッドとディスブロウは、護国卿政権を軍の管理下において政治を支配したいと考えていました。

しかし下級士官や共和主義者は共和制の復活を望んでおり「護国卿政権の廃止と残部議会( Rump Parliamentの復活」を強く求めました。フリートウッドらは、これに抵抗することができませんでした。

※残部議会…1653年にオリバー・クロムウェルが追放した議会

1659年5月7日、議会は正式に再構成され、投票によって護国卿政権の解体が決定されました。

1659年5月25日、リチャードが正式に護国卿を辞任したことが発表されます。

亡命

1660年夏、リチャードは妻子をイングランドに残して、単身で大陸に亡命しました。王政が復活したため、危険人物視される可能性があったからです。

リチャードは1680年まで国外に留まり、ひっそりとイングランドに帰国したあとはハートフォードシャーのチェストハント( Cheshunt )で余生を過ごしました。

地図

ホワイトホール宮殿

オリバー・クロムウェルが息をひきとり、リチャード・クロムウェルが捕らわれの身となった宮殿です。

1530年から1698年までイングランド国王の主な居所のひとつでした。イニゴ・ジョンズが設計したバンケティング・ハウス( Banqueting House )をのぞいて、大部分が焼失しています。


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参考
Kings and Queens of England & Britain
Richard Cromwell
Oliver Cromwell Timeline
BCW project


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