チャールズ1世(Charles I)
       

チャールズ1世はジェームス6世/1世の息子です。王権神授説を信じ、議会との関係を難しくしました。事態は悪化の一途をたどり、1642年に始まるイングランド内戦(ピューリタン革命)に発展します。

王党派は、議会派のニューモデル軍に敗戦しました。チャールズ1世は捕らえられ、投獄され、裁判にかけられました。

議会派のなかには「国王と条件付きの和解を求める人たち」と「国王の処刑を望む人たち」がいました。意見が分かれていたのです。和解を求める人たちは、より過激な人々によって、議会を追放されました。そして1649年、チャールズ1世の処刑が実行されました。

※ジェームス6世/1世…スコットランド王として6世(6人目のジェームスという名の国王)、イングランド王として1世

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チャールズ1世(Charles I)

チャールズ1世
出典 Wikimedia Commons
治世1625年3月27日-1649年1月30日(23年310日)
継承権ジェームス6世/1世の息子
長子相続性(Cognatic primogeniture
生没1600年11月19日:Dunfermline Palace
1649年1月30日(48歳、処刑):Whitehall Palace
家系スチュアート家(Stuart
父母ジェームス1世(James I
デンマーク王女のアン(Anne of Denmark
結婚1625年:ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス(Henrietta Maria of France
子供チャールズ(Charles II
メアリ(Mary, Princess of Orange
ジェームス(James II & VII
Elizabeth
アン(Anne
Henry, Duke of Gloucester
Henrietta, Duchess of Orléans
埋葬St George’s Chapel
チャールズ1世

年表

1625チャールズ1世が父ジェームス1世/6世を継いで即位
※「スコットランド」と「イングランド(ウェールズ含む)およびアイルランド」の国王
スペイン=ハプスブルク家のマリアとの縁談が成立せず、フランス=ブルボン家のヘンリエッタと結婚
1626議会がバッキンガム公爵(George Villiers)を糾弾、チャールズ1世が救助に入る
1627英仏戦争はじまる
バッキンガム公爵、ラ・ロシェルのユグノーの解放に失敗
1628議会が「権利の請願( Petition of Right )」を提出しチャールズ1世が不本意ながら合意
ウィリアム・ハーヴェー( William Harvey )が「血液循環説」を唱える
1629チャールズ1世が議会を解散し、1640年まで専制政治を行う
1630北アメリカに植民地マサチューセッツが建設される
1633ロンドンにバッキンガム宮殿の建設が始まる
1638スコットランド人が「国民盟約( National Covenant )」に署名、チャールズ1世によるスコットランド教会改革に抵抗
1640チャールズ1世、資金調達目的で議会を招集するも承認されず3週間で解散( Short Parliament
チャールズ1世、議会を招集
※「議会の解散には議会の同意が必要」とする法案が可決され、かつ議員が1660年まで解散を行わなかったため「長期議会( Long Parliament )」の名で知られることになる
1641星室庁および高等宗務官裁判所の解体( the Star ChamberCourt of High Commission
※ 星室庁…国王大権のもと開かれる裁判で、貴族を牽制したり取り締まることができた。
1642チャールズ1世、5人の議員の逮捕に失敗
イングランド内戦( Civil War )はじまる
チャールズ1世がノッティンガムで挙兵し、王党派軍が議会派軍にとりあえずの勝利( Battle of Edgehill
1643チャルグローヴフィールドの戦い:王党派軍の勝利( Battle of Chalgrove Field
第一回ニューベリーの戦い:引き分け( Battle of Newbury
1644ヨーク包囲:議会派軍がヨークを包囲するが、王党派カンバーランド公ルパート( Prince Rupert )が解放に成功
マーストン・ムーアの戦い:議会派軍および国民盟約派軍が王党派軍に勝利( Marston Moor
オリバー・クロムウェル( Oliver Cromwell )とピューリタン( Puritans )が圧力をかけ、議会で「クリスマスの祝いを禁止する法案」が通過
1645 ネイズビーの戦い :議会が創設したニューモデル軍( New Model Army )が王党派軍に勝利( Battle of Naseby
1646チャールズ1世がスコットランド人に降伏し、身柄をイングランド議会に引き渡される
国王と議会の交渉の場がもたれる
チャールズ1世がスコットランド人と同盟し、イングランドへの侵攻を促す
1647チャールズ1世、ワイト島へ逃亡を図るが捕まる
チャールズ1世、 裁判にかけられ有罪判決が下される
1648 プレストンの戦い :王党派および盟約派軍が、イングランド議会派軍に敗戦( Battle of Preston
1649チャールズ1世が処刑され、クロムウェルを代表とするコモンウェルスの議会が統治をはじめる
チャールズ1世

おもなできごと

スコットランド生まれイングランド育ち

チャールズはスチュアート家の次男として産まれました。1603年、スコットランド王ジェームス6世がイングランド王位も継承しイングランドに移住すると、当時3歳だったチャールズも翌年イングランドに移住しました。

チャールズはイングランドで育ち、その人生のほとんどをイングランドで過ごしました。1612年に兄ヘンリー( Henry Frederick )が死去したため、王位継承予定者となりました。

カトリック派のフランス王女と結婚

1625年に、チャールズ1世は父王の崩御にともなって即位します。

チャールズは戴冠した年にフランス=ブルボン家のヘンリエッタ( Henrietta Maria of France )と結婚します。ヘンリエッタはカトリック教徒でしたので「カトリック信仰を続けられること」を条件として結婚に同意しました。

プロテスタント勢力が優勢のイングランドにおいて、ヘンリエッタは非常に不人気でした。

チャールズ1世の専制政治(11年間)

チャールズ1世の宗教観はカトリック寄りと見なされたので、議会のピューリタン( Puritans )から協力を得られませんでした。議会はむしろ国王大権( royal prerogative )を抑制しようとし、耐えかねたチャールズ1世は議会を解散し、以後11年間、議会を招集しませんでした。

チャールズは「王権神授説( divine right of kings」を信じ、己の良心のみに従った統治を進めました。国民の多くはこれを「専制君主」であると認識し、不法に課される税金などに大いに不満を募らせました。

※王権神授説…「王権は神から付与されたものであり、王は神に対してのみ責任を負い、王権はなんびとによっても拘束されることがない」とする政治思想。

※専制君主…国王個人に強大な権力が集中させて、国を治める政治体制。⇒絶対王政と専制君主制の違いは?|勉強ノート共有Clearnote

イングランドとスコットランドの宗教統一に失敗

チャールズ1世はイングランド国教会(別名:聖公会 / 英国国教会 / アングリカン / Anglican )の高教会( high church )を支持しており、スコットランド教会をこれに同化させようと試みたことで、激しい抵抗を受けました。

チャールズ1世による宗教統一に猛反発したスコットランド人らは「国民盟約(National Covenant)」に署名して団結しました。

チャールズ1世が差し向けた主教は、盟約派によってスコットランドから追放されました。チャールズ1世はこれを反乱ととらえ、鎮圧するための兵を挙げます。

この戦いは「主教戦争( Bishops’ Wars )」または「スコットランドの反乱」として知られています。

イングランド国教会

プロテスタントの教派のひとつで、イングランド君主を首長とする国教会です。監督制(Episcopal polity)を採っています。チャールズ1世の処刑後に監督制が廃止されますが、王政復古とともに復帰しました。

チャールズ1世が支持したハイ・チャーチは、教会の権威や伝統的慣習を高く評価するため、カトリック寄りとも言われます。

参考:なんでもわかるキリスト教辞典

スコットランド教会

プロテスタントの教派のひとつ、カルヴァン主義(改革派/長老派)の教会です。イングランド国教会の「監督制」に対し「長老制(Presbyterian polity)」を強調したので「長老派教会」とも呼ばれます。

参考:なんでもわかるキリスト教辞典

プロテスタント系の教派の略図
出典 Wikimedia Commons

ピューリタン革命(清教徒革命)

軍資金の調達に失敗、議会との対立が内戦に発展

「主教戦争 / スコットランド人の反乱」で軍資金が必要になったチャールズ1世は、やむを得ずイングランド議会を招集します。しかし議会は軍資金の徴収を認めませんでした。

資金を得られなかったチャールズ1世は、スコットランド国民盟約派軍に敗戦しました。

さらにはイングランド議会によって「国王大権への制限」を設けられました。憤慨したチャールズ1世は議員の逮捕を試みますが失敗し、暴動が起きてロンドンを追われたので、兵を挙げて鎮圧にかかります。議会もまた兵を挙げて応戦しました。これが「ピューリタン革命 / イングランド内戦(Civil war)」に発展します。

そしてこの時とばかりに、アイルランドでも、イングランド支配に対する反乱が勃発しました。

日本で「ピューリタン革命 / 清教徒革命」の名で知られているできごとは、イギリスでは「イングランド内戦」または範囲を広げて「3つの国の戦争」と呼ばれています。

宗教問題のみならず政治的問題が深く関係しています。

Wars of the Three Kingdoms / British Civil Wars

チャールズ1世 VS 議会

ピューリタン革命 / イングランド内戦 は、第一次と第二次の戦争に分けられます。チャールズ1世の敵は、イングランド議会派軍です。

イングランド議会派は、スコットランド盟約派と同盟を結びました。

チャールズは第一次内戦に破れます。このとき、あえてスコットランド盟約派軍にだけ降伏しました。敵の同盟を破綻させる狙いがあったからです。しかし盟約派にも複雑な事情がありました。そのためチャールズ1世の身柄は、あえなくイングランド議会(長期議会の会期中)に引き渡されてしまいました(1645)。

イングランド議会はチャールズ1世に「立憲君主制( constitutional monarchy」の受け入れを要求しますが、チャールズ1世はこれを拒んで、逆転の機会をうかがいました。

チャールズ1世は一度脱走に成功しますが、あえなく捕まり、ワイト島で再投獄されます。チャールズ1世はスコットランド盟約派の一部を味方につけ、獄中から第二次イングランド内戦を展開しました。しかしこちらも敗戦しました。

チャールズ1世の処刑

国王の処分についてはイングランド議会派のなかでも意見が分かれました。強硬派(独立派)とニューモデル軍( New Model Army )の一部は裁判と処刑を望み、国王との和解を求める議員(長老派)を議会から追放しました。

チャールズ1世は、裁判にかけられ、有罪判決( high treason )を下され、1649年に処刑されました。

こののち、イングランドは、国王のいない共和国( Commonwealth of England )として宣言されました。1660年に「王政復古」がなされるまで、国王不在の期間が続きます。

地図

カリスブルック城(ワイト島)

カリスブルック城( Carisbrooke Castle )は、チャールズ1世が投獄された城です。ワイト島の中央に位置する歴史あるモット・アンド・ベイリー型の城です。観光入城できます。

カリスブルック城

公式ウェブサイト: Carisbrooke Castle


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参考
Charles I of England
Wars of the Three Kingdoms
Kings and Queens of England & Britain
King Charles I (1625 – 1649)
A Brief History of British Kings & Queens

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