ジェームスはスコットランド女王メアリの息子です。生後13か月でスコットランド王位を継承し、35歳のときにイングランド王位も継承しました。両国に君臨した初めての君主です。スコットランドではジェームス6世ですが、イングランドではジェームス1世として数えられます。
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ジェームス1世・6世(James I & VI)
治世 | スコットランド王として: 1567年7月24日- 1625年3月27日(57年244日) イングランド王として: 1603年3月24日-1625年3月27日(22年4日) |
継承権 | スコットランド王として:メアリ女王の長子 イングランド王として:ヘンリー7世の曽曾孫 |
生没 | 1566年7月19日:エジンバラ城(Edinburgh Castle) 1625年3月27日(58歳):セオバルズハウス(Theobalds House) |
家系 | ステュアート家(Stuart) |
父母 | スコットランド女王メアリ(Mary, Queen of Scots) ヘンリー・ステュアート(Henry Stuart, Lord Darnley) |
結婚 | 1589年:アン・オブ・デンマーク(Anne of Denmark) |
子供 | Henry, Prince of Wales Elizabeth, Queen of Bohemia Margaret チャールズ1世(Charles I) Robert, Duke of Kintyre and Lorne Mary Sophia |
埋葬 | ウェストミンスター寺院(Westminster Abbey) |
スコットランド国王ジェームス6世
年表
1567 | 生後13か月のジェームス、スコットランド王として戴冠 |
1568 | スコットランド女王メアリ、スコットランド貴族に敗戦( Battle of Langside )しイングランドに逃れる |
1578 | ジェームス6世、親政を開始 |
1582 | 国王勅書により、エジンバラ大学が設立される( University of Edinburgh ) |
1587 | スコットランド女王メアリ、エリザベス1世によって処刑される |
1592 | スコットランドの教会および議会が「カルヴァン派」を「スコットランド国教会」に採用 ※カルヴァン派…プロテスタントの一派。長老派教会、プレスビテリアンともいう。 |
1600 | スコットランドで「グレゴリオ暦」が採用される (これまでは3月25日を1年の始まりとしていた) |
1603 | スコットランド王ジェームス6世が、イングランド王を兼ねジェームス1世として即位 |
1605 | 火薬陰謀事件( Gunpowder Plot ) |
1611 | 欽定訳聖書の発行 |
1614 | スコットランドの数学者ジョン・ネイピア( John Napier )が、「対数」を発明 ※詳しくは⇒ ジョン・ネイピア対数誕生物語|空間情報クラブ |
1618 | ドイツでプロテスタントとカトリックの対立が激化し、戦争に発展(Thirty Years’ War) |
1620 | メイフラワー号の出航(Mayflower) ※イングランド国教会から分離したピューリタンとその他の分離派がイングランドを去った |
1625 | ジェームス6世兼1世、崩御 息子のチャールズが両国に即位しチャールズ1世となる |
イングランド王ジェームス1世の治世
スコットランド国教会
スコットランドのキリスト教は紀元6世紀の少し前から存在していますが、「スコットランド国教会」と言った場合、その起源は16世紀の宗教改革に始まる教会を指します。 (Church of Scotland)
おもなできごと
生後13か月でスコットランド王に
ジェームスは、母メアリの退位によって、生後13か月でスコットランド国王として即位します。4人の大臣が入れ替わりで摂政をつとめました。1578年に親政を開始しますが、全権を手にするまでにはさらに5年ほどを要しました。
イングランド王位を継承後、スコットランド帰国は1度きり
ジェームスは、スコットランド女王メアリの息子です。イングランド国王ヘンリー7世の血を引いているため、「スコットランド」と「イングランドおよびアイルランド」の正当な王位継承権を備えていました。
1603年、イングランド女王エリザベス1世の崩御にともなって、ジェームスはイングランド王位も継承しました。エリザベス1世は結婚せず、子供もいなかったためです。
こうして、のち22年間、ジェームスは「スコットランド」と「ウェールズ含むイングランド、及びアイルランド」を統治することになりました。この時代は「ジャコビアン時代( Jacobean era )」とも呼ばれます。
イングランド王位を継承して以来、ジェームスは主にイングランドに滞在するようになりました。スコットランドに帰ったのは、たったの1度だけ(1617年)でした。
ジェームス6世/1世の治世に、アイルランドのウルスターへの入植( Plantation of Ulster )そして、アメリカ大陸の植民地化( English colonisation of the Americas )がはじまりました。
同君連合
スコットランド王国とイングランド王国は、異なる王国です。国王こそ同一となりましたが、それぞれの国に独立した議会があり、法律と司法が存在しました。このような状態を「同君連合( personal union )」と呼びます。
なお、スコットランドには「ジェームス」という名前の国王がこれまでに5人いたので、6人目であるジェームスは「スコットランド王ジェームス6世」となります。いっぽうイングランドでは「ジェームス」という名前の国王は初めてなので「イングランド王ジェームス1世」となっています。
ジェームス1世暗殺未遂「火薬陰謀事件」
ジェームス6世の治世は、それまでのスコットランド国王のなかで最も長い治世となりました。スコットランドにおいては順調に目的を達成し治めることができましたが、イングランドについては困難に見舞われました。1605年に火薬陰謀事件( Gunpowder Plot )が起きたほか、イングランドの議会とはたびたび衝突を繰り返しました。
火薬陰謀事件(Gunpowder Plot)
火薬陰謀事件は、カトリック派によるジェームス1世の暗殺未遂事件です。1605年11月5日に始まる議会で貴族院(House of Lords)を爆破する計画でした。用意した火薬に発火する役を担ったのがガイ・フォークス( Guy Fawkes )です。
しかし、この計画は匿名の手紙によって事前に貴族に知らされていました。爆破実行予定の前夜に議事堂を調査したところ、火薬の詰まった36個の樽を見張っているガイ・フォークスが発見されます。他の共謀者のほとんどはロンドンから逃亡しましたが、幾人かは追っ手の役人と対峙しました。首謀者ケツビー( Robert Catesby )はここで命を落としました。翌年に裁判が行われ、ガイ・フォークスも極刑(hanged, drawn and quartered)に処されました。
この暗殺計画の発覚後まもなく反カトリック法が導入されたが、ジェームス1世の治世においては、国王派のカトリック信者はその後も高い地位に留まることができている。
11月5日は「火薬陰謀事件を阻止した日」として記念され、祝賀イベントが行われる日となりました。これが形を変えて、現在では「ガイ・フォークスの夜」または「焚火の日」と呼ばれ、花火が打ち上げられます。実際の様子は「地球の歩き方」で紹介されています ⇒ イギリス11月5日のGuy Fawkes Dayとは?ギルフォードではトーチを持って歩きます!|地球の歩き方
ジェームスは、自身の肩書を「グレートブリテンとアイルランドの王( King of Great Britain and Ireland )」と名乗りました。ジェームスは、イングランドとスコットランドの議会を統一すべきと主張したひとりですが、これは叶いませんでした。
イングランド議会との確執
ジェームスは「王権神授説を唱えて議会と対立した好戦的な国王」というイメージで語られることが多いですが、20世紀の後半からは、歴史家によるジェームス6世/1世の評価が変わり始めました。現在では、真面目で思慮深い国王であったと評価される傾向があります。
ジェームス6世/1世自身は平和主義者であったとされ、イングランド議会のタカ派が推す対スペイン戦は避けたい考えでしたが、国王命令に背いた者(Walter Raleigh)がスペイン船と交戦しこれを難しくしました。
宗教争いを避けスペインとも友好関係を結びたかったジェームスの考えは、大陸で勃発した「三十年戦争※」によってさらに困難なものとなりました。この戦争において、プロテスタント派の義理の息子がカトリック派によってボヘミアを追われ、さらにその領土がスペイン兵に占領されたのです。ジェームスは支援を試みますが、議会から与えられた軍資金は不十分でした。議会ではむしろ、スペインの富を狙って直接的な対スペイン戦への機運だけが高まってゆきました。
※三十年戦争…ドイツにおけるプロテスタントとカトリックとの対立に端を発し、ハプスブルク家とブルボン家の抗争と相まってヨーロッパの覇権争いに発展し泥沼化した戦争。結果は、ハプスブルク家が大打撃を受け神聖ローマ皇帝も名のみの存在となるいっぽうで、フランスはアルザス地方を獲得して最強国となり、オランダとスイスが独立、ドイツ諸侯の独立性が高まり、スウェーデンも北ドイツの諸要地を獲得して勢力を増した。
ジェームス6世/1世が亡くなると、息子のチャールズに王位が継承されました。
学者肌だったジェームス6世/1世
「黄金時代」と呼ばれるエリザベス1世の治世に花開いた文学や演劇などの文化は、ジェームスの治世も続きました。ジェームス自身も次のような論文を残しています。
- Daemonologie (1597)…哲学論文
- The True Law of Free Monarchies (1598)…政治理論に関するエッセイ
- Basilikon Doron (1599) …政府に関する論文
ジェームスは聖書の英訳も命じています(欽定訳聖書)。
地図
聖ルード教会とスターリング城
聖ルード教会(Church of the Holy Rude)は、ジェームス6世がスコットランド国王として戴冠した教会です。スコットランド王室の居所として使われたスターリング城(Stirling Castle)に隣接しています。
現在スターリング城は一般公開されており、入城できます。
スターリング城
公式サイト:Stirling Castle
参考
Kings and Queens of England & Britain
King James VI of Scotland (1567 – 1625)
Church of Scotland
James VI and I
A Brief History of British Kings & Queens