オリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell)
       

クロムウェルはケンブリッジシャーのハンティンドン( Huntingdon )に、ジェントリ階級の息子として産まれました。1629年に議員になり、議会派(の独立派)としてイングランド内戦(ピューリタン革命)で活躍します。騎兵隊を率いて出世し、ニューモデル軍を率いる司令官の1人となり、「ネイズビーの戦い」で王党派を破って議会派を勝利に導きました。

敗戦したチャールズ1世との交渉は合意に至らず、またこの間に議会とニューモデル軍の間に亀裂が生じます。クロムウェルは国王を裁判にかけ処刑することを支持しました。

「王政廃止」とともに「イングランド共和国」が誕生します。不安定な政情のなかで護国卿に就任したクロムウェルは、国王と変わらない権力を有するようになりました。クロムウェルが亡くなると息子が跡をつぎますが、政権は転覆し、まもなくして王政が復活します。

クロムウェルへの評価は、国や人によって「英雄」「独裁者」「虐殺者」など様々です。

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オリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell)

護国卿となったクロムウェルは「国王」ではありませんが、「空位時代を埋める代表人物」として、例外的に 君主一覧 に取り上げました。

オリバー・クロムウェル
出典 Wikimedia Commons
治世
護国卿
1653年12月16日-1658年9月3日(4年262日)
継承権
生没1599年4月25日:Huntingdon
1658年9月3日(59歳):Whitehall
家系
父母ロバート・クロムウェル(Robert Cromwell)
エリザベス・ステュワード(Elizabeth Steward)
結婚1620:エリザベス・ブルシエ(Elizabeth Bourchier
子供Robert Cromwell
Oliver Cromwell
Bridget Cromwell
リチャード(Richard Cromwell
Henry Cromwell
Elizabeth Cromwell
James Cromwell
Mary Cromwell
Frances Cromwell
埋葬Tyburn
空位時代の護国卿オリバー・クロムウェル

年表

1649チャールズ1世の処刑
王政の廃止と共和国の誕生
国務会議( Council of State )の設置
クロムウェル、アイルランドに遠征
敵の同盟軍(カトリック同盟 + 王党派 + スコットランド盟約派)を破り、アイルランドを占拠
1650クロムウェル、共和国の軍司令官( Captain-General )に任命される
クロムウェル、軍を率いてスコットランド制圧へ
ダンバーの戦い( Battle of Dunbar ):オリバー・クロムウェル率いるイングランド共和国陸軍がスコットランド軍に大勝
1651ウスターの戦い( Battle of Worcester ):復位を目指すチャールズ2世を、共和国軍司令官オリバー・クロムウェルが撃破
1653「残部議会( Rump Parliament )」の強制解散と「指名議会( Barebone’s Parliamen )」の設置
クロムウェルが、イングランド+スコットランド+アイルランド護国卿( Lord Protector )に就任
1654西インド諸島(カリブ海)に海軍を送り、ジャマイカを掌握
護国卿期第一回会議の招集
1655軍政監制度の施行( Major-Generals
1656護国卿期第二回会議の招集
1657軍政監制度の終了
クロムウェル、議会から「国王としての即位」を提案されるが辞退し、実質的に国王同等の権力者として護国卿に留まる
1658クロムウェル、マラリアの症状と敗血症で死去
クロムウェルの息子リチャードが護国卿を継承
年表:共和国時代のオリバー・クロムウェル

おもなできごと

国王チャールズ1世の処刑後から息子チャールズ2世が復位するまでを「空位時代」と呼びます(1649-1660)。この間イギリスは、共和国時代(1649-53、1659-60)と護国卿時代(1653-59)を迎えました。

※イギリス…当初はイングランドのみが共和国で、のちに非協力的なスコットランドおよびアイルランドを征服によって組み込んだ。

生い立ち

オリバー・クロムウェルはジェントリ階級( landed gentry )の生まれです。ヘンリー8世の側近だったトマス・クロムウェル( Thomas Cromwell )の甥の直系にあたります。

※トマス・クロムウェルは、ヘンリー8世に気に入られて出世し、キャサリンとの婚姻の無効化やローマ教会からの離脱に貢献した人物。トマスは姉(あるいは妹)の息子であるリチャード( Richard Williams )を可愛がった。リチャードはトマスに付き従って宮廷入りしたのち、遺言にのっとり、”クロムウェル”の名を継承する。このリチャードの曽孫にあたるのがオリバー・クロムウェル。なお、リチャードの死因はヘンリー8世の怒りによる処刑。

40歳を迎える以前のオリバー・クロムウェルについては、詳しいことが分かっていません。遺されている資料が乏しく、4通の手紙と1628年のスピーチのみです。

議員およびニューモデル軍の司令官として

1630年代にチャールズ1世によって教会改革が行われたあと、クロムウェルは議会の独立派としてピューリタンを率いました。

クロムウェルは、当時のプロテスタント各派に対しては寛容な姿勢をもっていました。信仰に篤く「神が勝利に導いてくれると信じていた」と言われています。

1628年にハンティンドン( Huntingdon )の議員として政界入りし、1640年~49年にはケンブリッジ( Cambridge )の議員になりました。

イングランド内戦では、議会派( Roundheads )を支持します。ニューモデル軍の指揮官として、トマス・フェアファクス( Thomas Fairfaxのもとで活躍し、議会派の勝利に貢献しました。

※トマス・フェアファクス…議会派のニューモデル軍を率いて勝利に導いた最高司令官。ただしチャールズ1世の処刑は望まず、クロムウェルが牽引して過激化する独立派とは意見が合わなくなり退いた。チャールズ1世の息子チャールズ2世の復位を支援したため、かつて議会派を率いたにもかかわらず、王政復古後の刑罰をまぬがれている。

クロムウェルは、チャールズ1世( Charles I )の見せしめ裁判と処刑に賛同した者の1人です。残部議会のメンバとして残り、新たに誕生したイングランド共和国で最有力者となりました(1649-1653)。

イングランド内戦(1642-1651)

チャールズ1世と議会は、政治や宗教にもとめる政策がかみ合わず、互いに権力の抑制や権利の奪い合いを繰り返していました。そして「チャールズ1世を支持する王党派」と「議会を支持する議会派」に陣営が分かれ、ついに内戦へと発展しました(1642-1651)。

クロムウェルらの活躍で王党派に勝利した議会派ですが、「チャールズ1世との和解を支持する長老派(和解派)」と「王政廃止を訴える独立派(過激派)」に分裂します。クロムウェルは独立派を牽引し、独立派は長老派を議会から追放して、国王の裁判と処刑を断行しました(1649)。

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アイルランド侵攻とスコットランド制圧

クロムウェルはアイルランド( the English campaign in Ireland )にも赴いています(1649-1650)。

アイルランドでは「アイルランドカトリック同盟」と「王党派」と「スコットランド盟約派」が手を結んで、共和制イングランド政権に抗いました。クロムウェルの軍は、この敵軍を破って、同国を占拠しました( Irish Confederate Wars )。

この時期、ローマカトリックに対する一連の刑法( Penal Laws )が可決され、実質的にアイルランドの大部分が没収されることになりました。アイルランドでは、ほとんどがカトリック教徒だったためです。

クロムウェルは、スコットランド制圧の遠征軍も率いました(1650、1651)。

護国卿として3国の統治者となる

1653年4月20日、クロムウェルは残部議会を強制追放して、指名議会( Barebone’s Parliament )を設置しました。同年12月、支持者らの推薦によって「護国卿」に就任します。護国卿クロムウェルは、軍事力に物を言わせる攻撃的で効果的な外交政策を展開しました。

プロテスタントの教派に寛容なポリシーにもかかわらず、クエーカーやソッツィーニやランターズ( QuakersSocinians, Ranters )については異端と考えました。

クロムウェルの死

クロムウェルは1658年に、病が原因で亡くなり、ウェストミンスター寺院に埋葬されました。息子リチャード・クロムウェルが護国卿を継承しますが、彼は「権力の真空( power vacuum )」を招きました。

※権力の真空…「何者かが事象の統制を失い、且つ誰もそれに代わることができない」という政治的状態。

応援要請を受けたジョージ・マンク( George Monckがクーデターを起こし、チャールズ2世の復位につながる議会を構成を支援しました。王党派の権力も復活します( Stuart Restoration )。

※ジョージ・マンク…かつてオリバー・クロムウェルのもとで活躍した将軍で、当時はスコットランドに赴任中。

ウェストミンスター寺院に埋葬されていたクロムウェルの遺体は掘り返され、吊るされ、斬首されました( Oliver Cromwell’s head )。

死後の評価

クロムウェルは、イギリスおよびアイルランドの歴史において物議を醸す人物の1人です。クロムウェルについて、一部の歴史家は「急進派の指導者」と考え、ウィンストン・チャーチル※1は「軍事独裁者」と評し、レフ・トロツキー※2は「ブルジョワ革命家※3」と捉え、ジョン・ミルトンら※4は「自由の英雄」であるとして称賛しています。

※1 ウィンストン・チャーチル( Winston Churchill )…イギリスの政治家、陸軍軍人、作家。第二次大戦期および後の2度首相を務める。
※2 レフ・トロツキー( Leon Trotsky )…ウクライナ生まれのソビエト連邦の政治家、ボリシェヴィキの革命家、思想家。
※3 ブルジョワ革命…封建制の残存物を一掃し、資本主義の発展を保障する政治的・社会的変革。
※4 ジョン・ミルトンら… John Milton(共和派の運動家で、オリバー・クロムウェルを支持)、  Thomas Carlyl(19世紀イギリスの歴史家・評論家)、Samuel Rawson Gardiner(19世紀末の歴史家で17世紀が専門)

プロテスタントの教派には寛容であろうとしたクロムウェルですが、カトリック教徒には不寛容でした。クロムウェルが採ったカトリック教徒への仕打ちは、とくアイルランドで、虐殺( ジェノサイド )かそれに近いものであったと伝えられています。アイルランドにおいてクロムウェルは悪名高い人物の1人です。

地図

クロムウェル博物館

オリバー・クロムウェルの生まれ故郷ハンティンドンに、クロムウェル博物館があります。

公式サイト:The Cromwell Museum


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参考
BCW-project.org oliver-cromwell
Kings and Queens of England & Britain
Oliver Cromwell
Oliver Cromwell Timeline

チャールズ1世(Charles I)
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