広義の「ピューリタン革命」 –  3つの王国の戦争(前編)
       

「ピューリタン革命」は、チャールズ1世による専制政治に対して起きた内戦です。イギリスではこれを「ピューリタン革命」とは呼ばず、「イングランド内戦(English Civil War)」あるいは範囲を広げて「3つの王国の戦争(Wars of the Three Kingdoms)」と呼んでいます。

3つの国とは、イングランド、スコットランド、アイルランドを指します。1625年に即位し1649年に処刑されたチャールズ1世は、3国の王位を同時に継承した最初の王です。

※3国…ここでは、ウェールズはイングランドの一部とみなされるため4つではなく3つ。
※チャールズの父ジェームスはスコットランドの国王で、途中からイングランド王位も継承。

歴史や教派の異なる3国を統治するのは簡単なことではありません。国王チャールズ1世の政策は配慮に欠けた部分が目立ち、議会や民衆の反乱を招くことになりました。

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あらすじ(30秒で読める)

チャールズ1世と議会は、政治的および宗教的な見解が一致せず、互いに権力や権利を抑制しあっていました。

アイルランドで起きた反乱を鎮圧するにあたり、国王と議会のどちらが軍隊の指揮権を握るかという論争が生じました。これを機に「王党派」と「議会派」が明確になります(1642)。チャールズ1世による5人の議員の逮捕未遂のあと、両者は戦争の準備を整えました。

議会派はスコットランドと同盟して王党派を倒しますが、その過程で 「独立派」 と 「長老派」 に内部分裂しました(1642-49)。この内部分裂を利用して逆転をはかった国王ですが、あえなく敗戦します(1648)。

※独立派…国王と徹底交戦し、圧勝したい人たち。
※長老派…国王と交渉し和解をめざす人たち。手を結んだスコットランド盟約者(信仰が長老派)に由来する名称。

イングランド議会では「独立派」が、自ら創設したニューモデル軍の手を借りて「長老派」を議会から追放(1648)したのち、国王の処刑を断行し(1649)、共和国を成立させました(1649)。

ところが急進化したニューモデル軍によって「独立派」の議員も追放されることになり(1653)、不安定な国家はクロムウェルの独裁を許すことになります(1657)。

しかしクロムウェルが亡くなると護国卿政権は崩壊し(1659)、追放されていた議員が復帰して王政復古を無条件で受け入れました(1660-61)。

以上が、30秒で読める あらすじ です。

詳しい経緯はつぎのとおりです。

1625-40年:国王と議会と対立のはじまり

チャールズ1世、11年間の専制政治

15世紀以来イングランドでは、国王の主要な収入源のひとつとして「生涯にわたる関税徴収」が認められていました。チャールズ1世( King Charles )は、自身にも当然これが認められるものと期待していました。しかし議会は、チャールズ1世に対しては、1年に限ってのみこれを承認するという制限を設けました。

当時の議会で優勢を誇っていたのはピューリタン( Puritanism )です。チャールズ1世の外交政策や宗教に関する考えは、このピューリタンの主張と歩調を合わせていませんでした。このためチャールズ1世は議会の協力を得ることができなかったのです。

※外交政策や宗教…対スペイン戦争の継続、フランス王女ヘンリエッタ(カトリック教徒)との結婚、イングランド国教会に監督制を導入する改革など

議会の協力を得られなかったチャールズ1世は、議会に諮らず独りで統治することを宣言します。のち11年間(1629-1640)、議会を招集することなく、専制君主として振る舞いました。

※専制君主 / 絶対君主( absolute monarch )…君主が統治の全権能を所有し自由に権力を行使する政体。

チャールズ1世(1635-36)
出典 Wikimedia Commons

ピューリタン

ピューリタンはプロテスタントの一派で厳格なカルヴァン主義です。イングランド国教会の在り方がカトリック寄りであるとして、よりプロテスタントらしく”清める”ことを求めました。純粋な信仰のほか、時代によって政治的なニュアンスが加わります。

メアリ1世時代(r.1553-1558)
「ピューリタン」という呼称が、プロテスタントを嘲笑する言葉として登場。
エリザベス1世時代(r.1558-1603)
イングランド国教会内部の一派を指す言葉として「ピューリタン(清教徒)」 が定着。カトリックのなごりをすべて消し去って”清め”ようとする人々の総称となる。この運動の支持者は、少数の貴族およびジェントリと、大多数のヨーマン、商人、職人。
ジェームス1世(r.1603-1625)
ピューリタンの訴えの一部が「イングランド国教会の祈祷書(KJV)」に採用されたものの、国王が目指したものはあくまで国家優位の国教会。弾圧を恐れた多数のピューリタンが国外に渡る( 例 Pilgrim Fathers in 1620 )。
チャールズ1世時代(r.1625-1649)
内戦前:チャールズ1世がカトリックのフランス王女と結婚したこと、カトリック寄りと思われかねない改革を試みたことなどから、ピューリタンは国王への不信を募らせる。
内戦ぼっ発後:議会のピューリタンは内戦の過程で内部分裂し、独立派と長老派に分かれる。王党派に勝利し、新しい祈祷書の導入(1645)やイングランド国教会の監督制の廃止(1646)を決定。

Puritans | BCW Project
Puritans

水面下で蓄積される人々の怒りと恨み

チャールズ1世は、王権神授説を信じていました。王権神授説とは「王権は神から与えられたものであり、地上のなんぴとたりともこれを戒めたり非難したりできない」とする考えです。

議会を通さずに国王の収入を確保するためには、法的に疑わしい手段をとらざるを得ませんでした。実はチャールズ1世がとった手法のいくつかは、実際に裁判にかけられることがありました。しかし裁判官は、あえて国王に逆らう判決はくだしませんでした。

チャールズ1世による宗教改革方針は多くの人の反感を招きました。さらに批判的な勢力を弾圧したことで、人々は国王に対して深い怒りと恨みを抱きました。

それでもチャールズ1世が専制政治を行った11年間( 1629-1640 )は、おもてむきは平穏でした。

チャールズ1世が即位したときの情勢

イングランド(ウェールズ含む)、スコットランド、アイルランドは、性格の異なる国でした。歩んできた歴史も違えば、互いに抗争を繰り返した過去の戦争の印象も違い、さらに教派も異なりました。

スコットランド
プロテスタントのカルヴァン派(長老派)が多数
イングランド
中程度のプロテスタントとピューリタン(清教徒)が優勢
アイルランド
カトリックに留まる人が多数

ヨーロッパ大陸ではカトリック派とプロテスタント派の宗教争いに各国が政治的な思惑をもって参戦し泥沼化する三十年戦争(1618-1648 / Thirty Years’ War)が勃発していました。

1638-41年:主教戦争 / スコットランド人の反乱

チャールズ1世が試みてきた政策のひとつに「イングランド国教会とスコットランド教会の統合」があります。容易ではない試みを強引に行った結果、スコットランドで反乱がぼっ発します。

※イングランド国教会(Church of England)…16世紀にローマ教会(カトリック)から独立し、国王を最高首長として成立。聖公会、アングリカン・チャーチとも呼ばれる。チャールズ1世時代は国教会内部にさまざまの教派が存在し対立。

※スコットランド教会(Church of Scotland)…16世紀の宗教改革によってアイデンティティを形成。長老派プロテスタント教会として、はやくから比較的安定。

発端はチャールズ1世による無神経な宗教改革

チャールズ1世は、長老制のスコットランド教会に、イングランド国教会の監督制および高教会(High church)の流れを導入しようとしました。スコットランド教会の聖職者や議会に事前に相談することさえしなかったので、 大いにスコットランド人の反感と不信を買いました。

さらにチャールズ1世は、かつてローマカトリック教会が所有していた土地を没収し、資金を集める目的で売却していました。このため、チャールズ1世の改革案は、土地を没収されるかもしれない領主からも敬遠されました。

イングランド国教会流の説教をスコットランドの教会で行ったときに起きた暴動(1637)
出典 Wikimedia Commons

監督制(Episcopal polity)

監督制とは教会政治制度のひとつで、イングランド国教会で採用されています。三つの聖職位があり、主教が管轄区において最も大きな裁量権をもちます(ただし現在は、実質的に会議制)。

  1. 監督(ebiscopus)/ 主教(Bishop)
  2. 長老(presbyteros) / 司祭(Priest)
  3. 執事(Deacon)

※主教… 「Bishop」は、カトリックの場合「司教」と訳すが、日本聖公会では「主教」という語訳を用いる。つまり宗教改革前の「カンタベリー大教」は改革後に「カンタベリー大教」となる。ただし英語ではいずれも「Archbishop of Canterbury」。

Episcopal polity
なんでもわかるキリスト教大事典

長老制(Presbyterian polity)

長老制とは教会政治制度のひとつで、スコットランド教会で採用されています。教会員の選挙で選ばれた役員(長老と呼ぶ)が教会政治を司ります。教会の権威を長老会におく代表民主制です。16世紀半ばに導入され、確立されました。

イングランド国教会の「監督制」はいわゆる階級制なので、これと区別するためにスコットランド教会では「長老制」を強調しました。このためスコットランド教会のことを「長老教会」と呼ぶこともあります。

教理はカルヴァンの神学を基礎とし、すべては神が決定するという「予定説」の立場をとります。大陸で改革派と呼ばれる信仰と同じです。

Presbyterian polity
なんでもわかるキリスト教大事典

主教戦争(スコットランド人の反乱)ぼっ発

チャールズ1世の教会改革に反対する人々は、結集して「スコットランド盟約( National Covenant )」を結びました(1638)。盟約者は、グラスゴーで行われたスコットランド教会総会( Glasgow Assembly )で優勢となり、国王によって差し向けられた「主教」の追放に成功しました。

盟約者(Covenanters)は、スコットランドにおける政治的および宗教的な主要勢力となりました。チャールズ1世と盟約者は、いずれも妥協せず宗教的信念を譲りませんでした。

ついにチャールズ1世は、国王の権威を知らしめるために軍を挙げます。すると盟約者も「スコットランド防衛軍」を設立して応じました。こうして二次にわたる戦争が勃発します。この戦争は、主教の追放にちなんで「主教戦争( Bishops’ Wars )」と呼ばれます。単に「スコットランド人の反乱」と呼ばれることもあります。

エジンバラでスコットランド盟約に署名する人々(19世紀画)
出典 Wikimedia Commons

チャールズ1世、主教戦争に完敗

第一次主教戦争は、膠着状態で終わりました。チャールズ1世は、イングランド議会を招集して軍資金の調達をはかりますが、議会は国王の計画に協力することを拒みました。そのためチャールズ1世は、11年ぶりに開いた1640年議会をたったの3週間で解散しました。この議会は「短期議会( Short Parliament )」として知られています。

第二次主教戦争は、イングランド軍の屈辱的な敗退となりました。ロンドン条約( treaty of London )において、チャールズ1世はスコットランド盟約者に大きく譲歩せざるを得ませんでした。

この戦争によって、国王の資金不足は深刻なものなりました。やむを得ずチャールズ1世は、もういちど議会を招集します。資金調達と、ロンドン条約の批准(最終確認)が目的でした。

1640年11月に招集されたこの議会は「長期議会( Long Parliament」と呼ばれます。国王の政策に反対する勢力は、国王の権力に挑戦する準備を以前よりもしっかりと整えていました。国王と議会の間に生じた権力闘争は、1642年に勃発する「イングランド内戦( civil war )」へと発展してゆきます。

※長期議会…「議会の解散は国王によらず、議会自らが解散を宣言するまで継続する」という法案が可決。イングランド内戦および空位時代が終わる1660年3月16日まで、この議会は解散されなかったため「長期」の名が付された。

長期議会の様子
「議会の同意なしに議会を解散しない」とする法案に署名するチャールズ1世
出典 Wikimedia Commons

1641-49年:アイルランドのカトリック同盟と臨時自治政府

アイルランド民による反乱と暴動

1641年10月、アイルランドの小さなカトリック集団が共謀し、イングランド政府に対するクーデターを企てました。ダブリンやその他の主要な要塞を占拠したうえで、優位な立場から政治的および宗教的な要求を交渉する計画でした。ダブリンの掌握には失敗するものの、この暴動が引き金となって、入植者に不満や恨みを抱いていたアイルランド民が蜂起しまし、各地での暴動に発展しました。

※入植者…イングランドおよびスコットランドからの入植者

アイルランド臨時自治政府の設立

イングランドとスコットランドの軍隊が、暴動の鎮圧のために派遣されました。

アイルランドでは、カトリック教会の聖職者と、カトリック派のイングランド系アイルランド貴族( Catholic Anglo-Irish nobility )が結束して「カトリック同盟( Confederates )」を結びました(1642)。

この同盟は、チャールズ1世に対する敬意を表しながらも「国王とイングランド議会の抗争が解決をみて落ち着くまで」と強調したうえで、臨時の自治政府をたてました。

カトリック同盟の旗のレプリカ
中央に描かれているのはカトリック教徒だった女王メアリの戴冠
出典 Wikimedia Commons

盟約者と議会派 VS カトリック同盟

アイルランド総督オーモンド侯爵( Marquis of Ormondは、国王とカトリック同盟の敵対を終わらせるべく交渉を進めました(1643)。この結果、アイルランドに駐屯していたイングランド政府軍は、イングランドに戻ることが可能になり、王党派としてイングランド内戦を戦いました。

※アイルランド総督(the King’s lord-lieutenant in Ireland)…イングランド王国支配下のアイルランドにおける君主の名代としておかれた役職。
※オーモンド侯爵…のちに公爵。当時は侯爵。

しかしいっぽうで、スコットランド盟約者は、この休戦に反対でした。盟約者は、イングランド議会派と結んで、カトリック同盟との戦闘を続けました。

オーモンド侯爵ジェームス・バトラー
出典 Wikimedia Commons

教皇使節の介入でカトリック同盟が分裂

1645年、ローマ教皇イノケンティウス10世( Pope Innocent X )が、リヌッチーニ大司教( Archbishop Rinuccini )を教皇使節として「カトリック同盟」に派遣しました。リヌッチーニ大司教は、アイルランドのプロテスタント派をすべて追放するよう、指示を受けていました。

カトリック同盟内では、オーウェン・ロー・オニール( Owen Roe O’Neill )とゲール系アイルランド人がリヌッチーニ大司教を支持して協力を惜しまないいっぽうで、イングランド系アイルランド貴族の反応は少し冷ややかでした。イングランド系アイルランド貴族は、教皇の要求(プロテスタント派の追放)を非現実的であると考えました。

リヌッチーニ大司教が、王党派の総督オーモンド侯爵との和解交渉を拒絶したとき、カトリック同盟内に深い亀裂が生じました。チャールズ1世との和解を支持する層もあったからです。

和解の拒絶を受けて総督オーモンド侯爵は、ダブリンをイングランド議会派に明け渡すことにしました。リヌッチーニ大司教(カトリック)の手に落ちるリスクを負うよりは、と考えてのことでした。

1648年、インチクィン男爵( Inchiquin )が国王に代わってカトリック同盟に和解を申し出ました。このとき、和解に応じようとする者をリヌッチーニ大司教が非難しました。これが決定打となりカトリック同盟の内部が、リヌッチーニ大司教派と、和解派に分裂し、内戦に発展しました。

オニールのウルスター軍
リヌッチーニ大司教を支持、国王との和解に反対
イングランド系アイルランド貴族
国王との和解を支持
リヌッチーニ大司教
出典 Wikimedia Commons

イングランド議会派の勝利とアイルランド侵攻

国王チャールズ1世の処刑が終わった1649年の初頭、オーモンド侯爵は、「イングランドの王党派」と「スコットランドの盟約者」と「アイルランドのカトリック同盟」の3者で手を結ぶ交渉を行いました。新たに発足した「イングランド共和制」に対抗するためです。しかし内部分裂を起こしていたカトリック同盟では、オニールとウルスター軍がこの新同盟に加わらず対立者として残りました。

オーモンド侯爵の新同盟軍は「ラスマインズの戦い( battle of Rathmines )」でイングランド議会派に破れました。その後オリバー・クロムウェル率いる侵略軍がアイルランドに上陸する段階になって、オニールとウルスター軍は考えを改めますが、遅すぎました(1649年8月)。

オーウェン・ロー・オニール
出典 Wikimedia Commons

1642-46年:第一次イングランド内戦

第二次主教戦争におけるスコットランドの圧勝は、国王チャールズに深刻な財政難をもたらしました。1640年の11月チャールズ1世は、収入源の確保を期待して、しぶしぶながら同年2度目の議会を招集しました。のちに「長期議会( Long Parliament )」として知られることになる議会です。

軍の指揮権をめぐって国王と議会が対立

国王の政策に反対する議会を指揮したのは、ジョン・ピム( John Pym )です。当初は国王本人よりむしろ、その取り巻きに非難の矛先を向けました。ストラトフォード伯爵(Thomas Wentworth)やロード大主教( Archbishop Laudです。議会は1641年中をとおして、国王の権力を抑制する一連の憲法改正も行いました。

※ロード大主教…イングランド国教会に監督制を維持し、カトリック寄りと見なされかねないハイ・チャーチ流の儀式の導入を促進、新たな祈祷書の準備などを行った。

国王と議会の対立を浮き彫りにする問題は他にもありました。アイルランドで起きた反乱を鎮圧するにあたって「どちらが軍隊の管理権限を持つか」という問題です。これまで陸海軍の全指揮権を握っているのは国王であり、チャールズ1世はこの権限を議会に譲る気はありませんでした。

王党派

長期議会にて、1641年に国王に対する大抗議文( Grand Remonstrance )が提出されたあたりから、王党派の概念が現れ始めました。1642年に軍将校の任命権をめぐって国王と議会が対立したとき、どちらを支持したかによって「議会派」と「王党派」が識別されうるようになります。

※議会が国王の同意なしに独自の法案を可決( Militia Ordinance )たので、国王は報復として支持者を募って武装させた。

主な人物
Edward HydeJohn CulpeperViscount Falkland

Cavalier
Royalists | BCW Project

チャールズ1世、5人の庶民議員を逮捕未遂

1642年1月、チャールズ1世は致命的な過ちを犯します。反国王姿勢を牽引していると思われた5人の庶民院議員( five MPs )を逮捕しようとしたのです。チャールズ1世は武装した兵を従えて庶民院に入場しました。

5人は逃亡し、チャールズ1世はこれを追いました。しかしこのような国王の行いは許されがたく、議会を支持する声が高まり暴動に発展しました。この結果、むしろチャールズ1世と王室メンバがロンドンから脱出せざるを得なくなりました。

なお、議会はこの隙に「国王の裁可がなくても、条例には法的拘束力が生じるとする」ことを決定し宣言しました。

※裁可…君主が、臣下の奏上する案文を裁決し、許可を与えること。

5人のメンバ逮捕(未遂)の議会にてチャールズ1世に跪くレンソール(19世紀画)
出典 Wikimedia Commons

内戦ぼっ発:議会派内部の分裂(長老派 VS 独立派)

議論による解決を見いだせなかった国王と議会は、武力による解決へと歩を進めることになります。1642年8月、イングランド内戦がぼっ発しました。

チャールズ1世は議会の弱体化を図るべく、別の議会をオックスフォードに招集しましたが、あまり効果はありませんでした。しかしこれとは別に、議会派はみずから内部分裂をはじめました。

1643年12月、議会派は「スコットランド盟約者」と同盟を結びます。この同盟によって王党派より優位に立つことを期待していましたが、実際には、スコットランドの介入によって議会派の内部分裂が徐々に浮き彫りになりました。

「長老派」と「独立派」です。

長老派( Presbyterians
国王との和解交渉を通して内戦を終わらせたいと考える人々
独立派( Independents
軍事的な完全勝利を望む人々

ところが「長老派」が試みた和解交渉は成立せず、かといって「独立派」が望んだ軍事的な圧勝も成りませんでした。

なお、ここでいう「独立派」や「長老派」は、現代の政党のように確立されたものではなく流動的でした。どちらに属するかは、信念や信仰のみによらず、各々の家系や利害が大いに関係しました。またどちらにも属さない中立を貫く議員も少数いました。

長老派

長老派は、議会派のなかの一派です。チャールズ1世との武力衝突を避け和解を望むグループを指します。

必ずしも全員の信仰が長老派だったわけではなく、この名称はスコットランド盟約者と協力し合ったことに由来しています。盟約者は長老派教会の優遇を条件に国王との和解を望んでおり、目的はさておき、和解という点で目標が一致しました。

※スコットランド盟約者…長老制教会を守りたい人々で信仰も長老派(改革派/カルヴァン主義)。自らを「長老派」と呼んだ。かつて国王軍に反乱を起こして勝利し長老制の解体を防いだ。チャールズ1世との交渉でイングランドにも長老制教会を確保したい狙い。

特徴
独立派およびニューモデル軍の代表らと対立
第一次イングランド内戦後にニューモデル軍の不当な解散を試みたため、同軍の政治介入と過激化を招く
チャールズ1世の処刑には反対
第三次内戦においてチャールズ2世の復位を支持(復位後に長老派を優遇させる条件付きで)
主なメンバ
Denzil Holles
1644年暮れ頃から:John PymPhilip StapletonJohn Clotworthy、John Glynn
1645年辞退条例後:William Waller
1646年:Edward Massie、Richard Browne

※辞退条例…All members of the House of Commons or Lords who were also officers in the Parliamentary army or navy were required to resign one or the other, within 40 days from 3 April 1645.

Presbyterians | BCW Project

独立派

独立派は、議会派のなかの一派です。国王との和解を望まず、武力対決を行い決定的な勝利を治めたいと考えた人たちを指します。当初はスコットランド盟約者との同盟に積極的でしたが、目標が一致しないことを知り反目しました。

特徴
議会軍の再構成を行いニューモデル軍を創設(1645)
主張は非カトリックの教派の自由、国家と宗教の分離
独立派を支持して政治介入したニューモデル軍がプライドのパージ(1648)
残部議会の構成員
国王を処刑
イングランド共和国を宣言
のちニューモデル軍との関係悪化
主なメンバ
Henry Marten
Sir Arthur Hesilrige、Edmund Ludlow
Sir Henry Vane
John Carew、Colonel Harrison

Independents

独立派のニューモデル軍、王党派軍に圧勝

1645年、独立派が議会軍の大掛かりな改革を行いました。「ニューモデル軍 / 鉄騎隊 / 新模範軍( New Model Army )」の創設です。ここから1年余り後、このニューモデル軍が王党派に対して決定的な勝利をおさめ、第一次イングランド内戦に終止符を打ちました( Battle of Naseby )。

1646年、チャールズ1世はイングランド議会ではなく主にスコットランドに対して降伏を申し出ました。というのも、チャールズ1世には、敵の同盟内に一層の分裂と混乱を招きたい狙いがあったからです。

ニューモデル軍の戦法を再現
出典 Wikimedia Commons

<↓後編につづきます>

  関連リンク   広義の「ピューリタン革命」 – 3つの王国の戦争(後編)


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参考文献

Church-and-state
The BCW Project | British Civil War, Commonwealth & Protectorate 1638- 1660
Overview: Civil War and Revolution, 1603 – 1714 | BBC
By Professor Mark Stoyle, Last updated 2011-02-17
English Civil War
edited on 17 June 2022, at 15:00 (UTC).
Wars of the Three Kingdoms
Wikipedia | edited on 9 June 2022, at 18:05 (UTC)
Five Members
Wikipedia | edited on 9 January 2022, at 18:31 (UTC)
English Dissenters
WikiPedia | edited on 16 April 2022, at 08:32 (UTC)
日本聖公会東京教区
NSKK,Diocese of Tokyo | Japan Bible Society,Tokyo

イングランド議会
 ┣ 王党派
 ┗ 議会派
   ┣ 長老派
   ┗ 独立派

アイルランドカトリック同盟
 ┣ 国王と和解派
 ┗ 国王と軍事対決派

スコットランド盟約
  ┗ イングランド議会長老派と同盟
    ┣ エンゲージャー
    ┗ ウィガモアレイド

プロテスタント
 ┣ イングランド国教会(監督制)
 ┃ ┣ ハイチャーチ流
 ┃ ┣ ピューリタン
 ┃ ┣ レベラー
 ┃ ┣ クエーカー
 ┃ ┗ 第五王国派
 ┗ スコットランド教会(長老制)
   ┗ 長老派


広義の「ピューリタン革命」 –  3つの王国の戦争(後編)
広義の「ピューリタン革命」 – 3つの王国の戦争(後編)
第一次イングランド内戦では、ニューモデル軍の活躍で議会派が王党派に勝利しました。しかし議会派のなかで長老派と独立派の分裂がいっそう深まります。 このページは、の続きです。 目次 1. 1647-48年.....
チャールズ1世(Charles I)
チャールズ1世(Charles I)
チャールズ1世はジェームス6世/1世※の息子です。王権神授説を信じ、議会との関係を難しくしました。 事態は悪化の一途をたどり、1642年に始まるイングランド内戦.....
オリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell)
オリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell)
クロムウェルはケンブリッジシャーのハンティンドン( Huntingdon )に、ジェントリ階級の息子として産まれました。1629年に議員になり、議会派(の独立派.....
       
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