アメリカ革命(独立)戦争とは
イギリスの内戦にフランスが介入して植民地軍を支援、13植民地が勝利して独立に至った戦争(1775-83年)
アメリカ革命(独立)戦争は「英領北アメリカの13植民地人」と「国王代理の総督府」の間に生じた亀裂が大きくなった結果の、”内戦”としてはじまりました。
1775年4月にイギリス連隊と民兵の小競り合いが起きます。これが軍事的な衝突のはじまりとなりました(Battles of Lexington and Concord)。夏には、植民地の独立を賭けた本格的な戦争へと拡大します。
1778年にはフランス国が植民地人サイドについて参戦してきます。イギリスの内戦であったものが、国家間の対立に発展しました。
1781年、バージニアのヨークタウン(Yorktown)でイギリス軍が敗戦します。公式の終戦は1783年ですが、植民地人はここで事実上の独立を勝ち取ったようなものです。
なお、植民地人のなかには英国王に忠誠をつづけた人々もいました。彼らは”王党派 / トーリー”として知られています。
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抜粋文:1764年:砂糖法 / 1765年:印紙法 / 1767年~1768年:タウンゼント諸法 / 1770年:ボストン虐殺事件 / 1772年:ガスピー事件 /.....
戦争のおもな流れ
1775年:戦争のはじまりは英国軍と民兵の衝突
1775年4月、数百のイギリス兵が、武器の隠し場所を掌握するため、ボストンからコンコードの近くへ向かっていました。革命派は警戒し、英国兵を妨害するために地元の民兵が動員されました。民兵は英国兵と衝突し、レキシントンとコンコードの戦い(Battles of Lexington and Concord)が始まりました。
これを受けて第二次大陸会議がフィラデルフィアで開かれ、ジョージ・ワシントン(George Washington)を最高司令官とする植民地軍を編成することが決まります。
1775-1778:メリーランド北部での英軍の敗戦を聞きフランスが革命側について参戦
本格的な軍事行動はメリーランドの北部で開始され、1775年~1778年にかけて特に厳しい戦いが繰り広げられました。
大陸会議は1776年7月4日に独立を宣言しました。草案は、ジェファーソン(Thomas Jefferson)、ジョン・アダムス(John Adams)、フランクリン(Benjamin Franklin)らを含む5人によって書かれました。
サラトガの戦い(Saratoga)でイギリス軍が敗れたことを受けて、フランスが革命派を支援して参戦してきます。
1778年6月、ヘンリー・クリントン(Sir Henry Clinton)率いる英国軍はフィラデルフィアから撤退しニューヨークへ向かおうとしていました。このとき優勢を占めていたイギリス軍を、ワシントン率いる植民地軍が急襲します。ワシントンは一連の襲撃で、ニューヨークのイギリス軍も含めて敵軍の優勢に歯止めをかけました。
1779-1783:イギリス軍の南部作戦が功を奏すも、北上した先で敗北
1779年がはじまると、イギリス軍は「南部作戦(southern strategy)」を開始します。王党派の支援を集め、革命派の手中にあった領土を再占領しました(Savannah から Chesapeake Bay)。イギリス軍は成功をおさめ、植民地軍はチャールストン包囲戦(Siege of Charleston)において大敗を喫します。この地域の革命派にとっておおきな後退となりました。
しかしイギリス軍が北上したことは植民地軍とフランス軍の合流につながり、ヨークタウンの戦い(Battle of Yorktown)において敗北することになりました。公式の終戦は1783年ですが、事実上の決着はここでついたようなものとなりました。
アメリカ独立後
独立後のアメリカは、イギリスと友好的な商取引を行いました。
アメリカは「合衆国憲法(United States Constitution)」を制定し、国の政府を樹立しました。選挙による大統領制を導入し、高裁判所(national judiciary)を設置しました。議会は二院制(bicameral Congress)で、各州を代表する上院(Senate)と、人民を代表する下院(House of Representatives)から成ります。
王党派は約6万人が他のイギリス領(おもにイギリス領北アメリカ = カナダ)へ移住しましたが、ほとんどはアメリカに残りました。
なお、アメリカ合衆国が現在の広さに拡大するのは、さらに後のことです。
参考
American Revolution
American Revolutionary War