ジェームズ2世の王位継承権をめぐって
トーリー党とホイッグ党は、17世紀の王政復古期( The Restoration )ーチャールズ2世の時代ーにうまれた政党です。
チャールズ2世亡き後、カトリックである弟ジェームズの王位継承を容認したのがトーリーで、反対したのがホイッグです。どちらも本当は、国王にはプロテスタントであってほしかったのですが。
ジェームズ2世の追放では一致
即位したジェームズ2世が親カトリック政策をはじめると、両派ともが一致してジェームズ2世を追放しました。ジェームズ2世の娘メアリが嫁いでいたオランダの総督オランイェ公ウィレムはプロテスタントでしたので、彼が国王(王配)として担ぎ出されることになり、ウィリアム3世( William III of England )となりました。これを「名誉革命( Glorious Revolution )」といいます。
この革命そのものは短期間に、またほぼ血を流すことなく、迅速に行われました。しかし新しい体制の確立には時間がかかり、また多くの死傷者をだしました。ところがメアリ王女と国王ウィリアム3世は嫡子なく崩御します。メアリの妹アンが王女として即位しますが、こちらは嫡子が早世しました。ここでふたたび王位継承問題がもちあがります。
ステュアート派 VS ハノーヴァー派
アン女王の崩御でふたたび生じた王位継承問題。このとき、大陸に逃れていたジェームズ2世の息子ジェームズ・フランシス・エドワード( James Francis Edward Stuart )の王位継承権を支持したのがトーリーです。しかしジェームズ・フランシス・エドワードの信仰はカトリックでした。
そこで、女系からステュアート朝ジェームス1世の血をひくプロテスタント派のゲオルグ・ルートヴィヒが招聘されることになりました。神聖ローマ帝国の領邦国家ハノーファーの領主です。こちらを支持したのがホイッグです。
結果としてゲオルグ・ルートヴィヒがグレートブリテン王国の王位を継承することになり、ハノーヴァー朝が始まります。ゲオルグは英語読みで「ジョージ」となります( George I of Great Britain )。ホイッグは親王派、トーリーは反王権の勢力として警戒されることになりました。
ジョージ3世時代が転機
ジェームズ・フランシス・エドワードの王位継承権を主張するひとびとは「ジャコバイト」とも呼ばれました。たびたび反乱を起こしますが1746年に完敗したのを最後に、この問題はほぼ終わります。
ジョージ3世が即位すると、政治的にも新しい時代がやってきます。これまで、ハノーヴァー朝における政権はホイッグが握っていましたが、1760年頃を境にトーリーが政権をとりはじめます。
保守党と自由党へ
トーリー党は、おおむね1830年頃までほぼ連続して政権を掌握し、1832年に「保守党( Conservative Party )」と名を改めます。いっぽうでホイッグ党は、さまざまの思想が合流して1859年に「自由党( Liberal Party )」となりました。
まとめ
ホイッグ | トーリー | |
1685:ジェームズ2世の王位継承(カトリック) | NO | YES |
1688-89:ジェームズ2世の追放(名誉革命) | YES | YES |
1714:ジェームズ2世の息子の王位継承権 | NO | YES |
1714:ハノーファーから国王を招聘(ハノーヴァー朝) | YES | NO |