糸つむぎのスピードが数十倍に
「ジェニー紡績機」の登場
1764年もしくは1765年に、ジェームス・ハーグリーブス(James Hargreaves)が「ジェニー紡績機」を開発しました。ひとりで一度に8本もしくはそれ以上のスプール(リール/糸巻棒)に糸をつむぐことができるようになり、産業革命における繊維業の重要な転換点のひとつに数えられています。なお、この発明を水力を用いて拡大したのがリチャード・アークライト(Richard Arkwright)の水力紡績機(Water frame)です。リチャードは協賛者らとともに1771年に世界初の水力紡績工場を開設しました。
開発者ハーグスリーブスは織物産業地ブラックバーン近くの出身
「ジェニー紡績機」はジェームス・ハーグリーブスによって開発されました。ジェームス・ハーグスリーブスはブラックバーン(Blackburn)に近いオズワルトウィスル(Oswaldtwistle)で1720年に生まれます。ブラックバーンは人口約5千人の町で、ブラックバーングレイと呼ばれる、リネンと綿の織物(linen warp and cotton weft)で知られていました。

「飛び杼」の登場で需要がたかまる「糸」
1733年に開発されたジョン・ケイの「飛び杼(flying shuttle)」によって織り機の生産力が向上していました。この織り機の登場によって失業する人も多く、暴力的な抗議も発生しましたが、それでも「飛び杼」は普及を続けていました。このため「糸」の需要が高まっていたのです。
ジェニー紡績機は、従来より低コストでより速くより多くの糸をつむぐことができ、高まる需要に応えることができました。もしジョン・ケイの「飛び杼」が開発されていなかったり、織物産業に広く普及していなかったなら、ジェニー紡績機の需要も増えなかったはずです。

量産で糸の価格下落をまねき、地元を追われてノッティンガムへ
ジェニー紡績機の開発者ジェームズ・ハーグリーブスは、この紡績機を秘密にしながら糸を量産しました。糸の価格が安くなり、ブラックバーン糸協会の怒りを買います。協会メンバや失業者はハーグスリーブスの家に押し入って、紡績機を破壊しました。1768年、ハーグスリーブスはノッティンガム(Nottingham)に逃れます。ノッティンガムはメリヤス産業が盛んな地でした。ハーグスリーブスは、建具師のトーマス・ジェームス(Thomas James)とともにミル通り(Mill Street)で繊維業を始めました。
ジェニー紡績機、広く普及し1810年頃まで活躍
ハーグスリーブスは、1770年にジェニー紡績機の特許を取得します。これまでにランカシャーの多くの紡績事業者が彼の機械のコピーを作っていたのです。
ジェニー紡績機は1810年頃まで綿産業やファスチアン産業で広く一般的に使われました。以降はミュール紡績機が取って代わり、これが20世紀初頭まで活躍します。
動画:従来の糸車とジェニー紡績機の見比べ
名称の由来の逸話
ジェニー紡績機の「ジェニー」という名称については諸説あります。そのうちのひとつは、ハーグスリーブスの妻もしくは娘の名前だとされるものです。あるときジェニーは糸つむぎ機を倒してしまい、しかし糸つむぎはは倒れたまま回転を続けました。このときハーグスリーブスは気づきます。「紡錘(糸ぐるま)が、縦でなくちゃならない理由はないんだ」と。こうして、紡錘を横向きに配置したジェニー紡績機が開発されたというものです。
参考
Spinning jenny
Textile manufacture during the British Industrial Revolution
Water frame
Blackburn