ジェーン・グレイは「9日間の女王」として知られています。貴族の思惑が錯綜する政治の世界で擁立され、裏切りに合い、犠牲となった女王です。処刑されたとき、ジェーンはまだ17歳でした。
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ジェーン・グレイ(Lady Jane Grey)

出典 Wikimedia Commons
治世 | 1553年7月10日-1553年7月10日(9日) |
継承権 | ヘンリー7世とヨーク家のエリザベスの曾孫 後継者として指名 |
生没 | 1536:Bradgate Park 1553年2月12日(17歳):Tower of London |
家系 | グレイ家(Grey) |
父母 | 1st Duke of Suffolk & Frances Brandon |
結婚 | Guildford Dudley(1553年) |
子供 | ー |
埋葬 | Church of St Peter ad Vincula(ロンドン塔) |
年表
1553 | ジェーンの義父ノーザンバランド公爵が、ジェーンの王位継承を請求 メアリの支持者が勢いを増し、9日後にジェーンは廃位 メアリが女王となり、ジェーンは翌年に処刑される(17歳) |
おもなできごと
ヘンリー7世の曾孫
ジェーンはヘンリー7世の曾孫です。母方( Mary )からその血を引いており、先王エドワード6世からみると従兄妹の娘にあたります。プロテスタント派の教育を受けて育ちました。優れた人文主義( humanist )の教育を受け、当時において最も教養のある女性のひとりでした。
ノーザンバランド公爵によって擁立される
エドワード6世の政府で最高権力を誇る大臣( chief minister )は、ノーザンバランド公爵でした。1553年5月、ジェーンはノーザンバランド公爵の息子であるギルフォード・ダドリー( Lord Guildford Dudley )と結婚させられます。
ノーザンバランド公爵の助言を受けたエドワード6世は、ジェーンを次期女王として指名する遺言状を遺して亡くなりました。ジェーンはプロテスタントだったので、エドワード6世のプロテスタント化運動を引き継いでくれると期待されたのです。
しかし実はヘンリー8世の治世に定められた王位継承順位( Third Succession Act )では、エドワード6世の異母姉であるメアリ( Mary )とエリザベス( Elizabeth )が、上位の継承権者でした。ですからエドワード6世の遺言は、ヘンリー8世が定めた王位継承順位に準ぜず、この2人の継承権を剥奪することを意味しました。
ジェーンの王位請求、支持者が急速に離れる
エドワード6世が亡くなると、ジェーンは王位継承を請求することになります。1553年7月10日のことでした。ロンドン塔で戴冠式が行われる予定でしたが、事態は急展開をみせました。メアリを支持するカトリック派が急速に勢力を増し、これにともなってジェーンの支持者がジェーンを見捨てはじめたのです。ついには評議会さえも意向を変えて、メアリの支持を表明しました。
7月19日、ジェーンは廃位させられました。
これはノーザンバランド公爵の失脚も意味しました。ノーザンバランド公爵は反逆罪に問われ、1ヵ月以内に処刑されました。
ロンドン塔に投獄されたジェーンは、大逆罪で有罪となり、同年の11月に死刑宣告を受けます。
ジェーン・グレイの処刑
メアリ女王は、当初はジェーンの命までは奪わないつもりでした。しかしジェーンの父が、メアリに対する反乱( Wyatt’s rebellion )に関わったため、メアリ女王の考えは変わります。ジェーンを生かしておくことは、メアリ女王にとって脅威になると判断されたのです。ジェーンと夫は1554年2月12日に処刑されました。
ジェーンはまだ17歳でした。
参考
Lady Jane Grey
A Brief History of British Kings & Queens


