アングロサクソン七王国時代:王国の興亡(7世紀、8世紀、9世紀)

アングロサクソン七王国時代:王国の興亡(7世紀、8世紀、9世紀)
       
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おおすじ

七王国の興亡とバイキングの来襲(7世紀~9世紀)

ブリテン島各地に乱立したアングロサクソン人の王国は互いに争い、7世紀初頭には七つの王国が主要な王国として台頭していました。

関連記事アングロサクソン七王国時代:七王国のなりたち
抜粋文:ローマンブリティシュ人が住んでいた4世紀ころから、ケントは度重なる海からの攻撃にさらされてきました。そこでどうやら、ゲルマン語を話す異民族が傭兵として招き入れら.....

7世紀~8世紀を通じてさらに淘汰され、イーストアングリア王国ノーザンブリア王国マーシア王国ウェセックス王国の4つが主要な王国として順に覇権を握ります。

9世紀~10世紀にかけてはバイキングの侵攻に苦しみました。このなかで生き残ったウェセックス王国が覇権を握ってバイキングに反撃をしかけます。

7世紀はじめの主なアングロサクソン人の王国
出典

サセックス、エセックス、ウェセックス の語源

それぞれ南、東、西のサクソン人という意味です。
south-saxons ⇒ Sussex
east-saxons ⇒ Essex
west-saxons ⇒ Wessex

6世紀~7世紀初頭

ケント王国とイーストアングリア王国の優勢

6世紀末のイングランドで最も強力だったのはケント王国のエゼルベルト(Æthelberht)です。北へはハンバー川(River Humber)まで勢力圏を広げていました。

7世紀のはじめは、ケント王国とイーストアングリア王国がイングランドの諸王国のなかで勝っていました。616年にエゼルベルトが亡くなると、イーストアングリア王国のレドウァルド(Rædwald)がハンバー川以南の最上の王となりました。

7世紀初頭

ノーザンブリア王国の興隆

ノーザンブリア王国では、アゼルヴリス王(Æthelfrith)亡き後、デイラ系のエドウィン(Edwin)がノーザンブリア王国の王になります。

ノーザンブリア王国は、デイラ王国とベルニシア王国が統一されてできた国です。先の国王アゼルヴリスはベルニシア系の王で、エドウィンはデイラ系の王でした。エドウィンは王位奪還のためイーストアングリア王国のレドヴァルド王から軍事支援を受けていました。(このような背景もあってノーザンブリア王国は内乱の絶えない国となります。)

レドヴァルド王が亡くなると、エドウィン王はノーザンブリア王国の覇権拡大に乗り出しました。

エドウィン王のもとでノーザンブリア王国は勢力圏を広げました。しかし、マーシア王国とグウィネズ王国が連合してエドウィン王の領土に侵入し、633年、エドウィン王は「ハットフィールドチェイス(Battle of Hatfield Chase)の戦い」で命を落とします。

※マーシア王国…アングロサクソン人の王国で、時の国王はペンダ(Penda
※グウィネズ王国…ブリトン人の王国で、時の国王はカドヴァロ(Cadwallon

エドウィン王のあと王位に就いたオズワルド(Oswaldはグネウィズ国王カドヴァロをヘブンフィールド(Heavenfield)で倒しました。しかし10年とたたないうちにマーシア国王ペンダがノーザンブリア王国にふたたび戦いを挑み、ついに642年(もしくは644年)、マーサーフィールドの戦い(Battle of Maserfield)にてオズワルド王は破れます。

※オズワルド王…アゼルヴリス王の息子のひとり(ベルニシア国系)

オズワルド王の跡を継いだオスウィウ王(Oswiu)は王国の北端まで追われました。ペンダ王の殺害こそ果たしますが、覇権はマーシア王国へと移ります。

7世紀~8世紀

マーシア王国の興隆

マーシア王国は、7世紀と8世紀を西のポウイス王国(Powys)との戦いに費やしました。この戦争は、マーシア王国のオファ王(Offa 治世 757 – 796)の時代にクライマックスを迎えました。

オファ王は150マイル(約240km)にわたる防塁(ffa’s Dyke)を築いたことで知られています。これはウェールズとイングランドの境界を形成しました。しかしこれが国境線だったのか、防衛用の陣地だったのかははっきりしていません。

8世紀に優勢を誇ったマーシア王国は、9世紀に入って「エランダンの戦い(Battle of Ellendun)」でウェセックス王国に完敗します。825年のことでした。マーシア王国はベオルンウルフ王(Beornwulf)の治世で、このときウェセックス王国を率いていたのはエグバート王(Egbert 治世 802 – 839)でした。

9世紀

バイキングの来襲、ウェセックス王国の台頭

8世紀~11世紀にかけて、ヨーロッパ各地はバイキングの来襲に苦しみました。”富が集約された場所”とみられた教会や修道院はいちばんに襲われました。

793年に聖なる島リンディスファーン(Holy Island)が占拠され略奪されました。その後約40年間はバイキングの来襲が止まりましたが、835年から再開され、以前よりも激しいものになりました。

867年にノーザンブリア王国が陥落、869年にイーストアングリア王国が陥落、874年~77年にかけてマーシア王国の大部分が侵略されました。

かろうじて生き残ったのがウェセックス王国です。878年、ウェセックス王国の国王アルフレドは、少数の仲間らとともに、サマーセット(Somerset)の沼地アテルニー(Athelney / Athelney)に要塞を設け、バイキングと戦うための拠点としました。

878年、アルフレドの軍は、エディントンの戦い(Battle of Edington)でバイキング軍を破ることに成功します。バイキングのリーダーガスラムと条約をむすび、デーン人の領域デーンロウが線引きされました。

アルフレド王は、引きつづき支配域の町々を要塞化して守りを固めました。デーン人(バイキング)の新たな来襲の波が891年から始まりました。アルフレド王が築いた新しい防衛システムはその成果を発揮しました。最後にはデーン人を滅ぼすに至り、彼らは896年半ばに分散しました。

バイキングの来襲とウェセックス王国の台頭については、次のリンク先にもう少しだけ詳しく綴っています。

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参考
Anglo-Saxons
History of Anglo-Saxon England
Timeline of conflict in Anglo-Saxon Britain
Anglo-Saxon settlement of Britain
Celtic Britons
Overview: Anglo-Saxons, 410 to 800
The ‘Dark’ Ages: From the Sack of Rome to Hastings

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