ジョンは、ヘンリー2世の四男(早世を含めると五男)です。ジョンは、兄リチャード獅子心王の跡を継いでイングランド国王に即位し、フランスにある広大な領土も相続しました。
ジョンは残酷で身勝手で貪欲な国王であったとされ、物語のなかでは、私利私欲のために諸侯に重税を課した悪王として描かれることがほとんどです。実際には「兄王の遠征と身代金が原因の財政難から出発した治世で、困難がおおいなかで王権拡大を志して失敗した王」といった具合のようです。
ジョンはマグナ・カルタを承認させられた王として有名です。圧政と重税に耐えかねた諸侯が国王に反乱を起こして勝利し、ジョンは諸侯の言い分を呑む結果となりました。
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ジョン(John Lackland)
治世 | 1199年5月27日-1216年10月19日(17年146日) |
継承権 | ヘンリー2世の息子 リチャード1世からの指名 |
生没 | 1166年12月24日:場所 Beaumont Palace 1216年10月19日(49歳):場所 Newark-on-Trent |
家系 | アンジュー家(プランタジネット家) |
父母 | Henry II & Eleanor of Aquitaine |
結婚 | Isabel of Gloucester(1189年) Isabella of Angoulême(1200年) |
子供 | Henry III, King of England Richard, 1st Earl of Cornwall Joan, Queen of Scotland Isabella, Holy Roman Empress Eleanor, Countess of Pembroke Richard FitzRoy(非嫡出) Joan, Lady of Wales(非嫡出) |
埋葬 | Worcester Cathedral |
年表
1199 | リチャード獅子心王の後継者としてジョンが即位 |
1204 | ジョン、フランスにあった領土のほとんどを失う |
1205 | ジョンがスティーブン・ラングトンのカンタベリー大司教就任を拒否 |
1208 | 教皇イノケンティウス3世がイングランドに対し聖務停止( Interdict )を宣言 |
1209 | 教皇イノケンティウス3世がジョンを破門 |
1209 | ケンブリッジ大学( Cambridge University )の創設 |
1212 | 教皇イノケンティウス3世が、ジョンの王権を不当であると宣言 |
1213 | ジョンが教皇の要求を受け入れる |
1214 | ジョン、ブーヴィーヌの戦い( Battle of Bouvines )でフィリップ2世に大敗 |
1215 | バロン戦争開始 |
1215 | ジョンがマグナ・カルタ(大憲章)を承認 |
1215 | 教皇イノケンティウス3世がマグナ・カルタの無効を宣言(Feudal_power_over_Europe)し、イングランドで内戦が再勃発 |
1216 | イングランドの諸侯がフランス国王の協力を仰いでジョンに応戦 フランス王太子ルイ(Louis VII of France)がイングランドに上陸しロンドン塔を掌握 |
1216 | ジョンが北部に逃亡 |
1216 | ジョン、赤痢による高熱で死去 ウスター大聖堂(Worcester Cathedral)に埋葬される |
おもなできごと
1189年から実質的な国王
ジョンのあだ名は「失地王」です。末っ子だったため継承できる土地がなかったことに由来すると考えられています。
兄リチャード獅子心王が第三回十字軍に参加してイングランドから離れていた際、ジョンは1189年から実質的に国王として振る舞うようになっていました。「ロビン・フッドの冒険」はこの時代が舞台となっています。
ジョンが正式に即位したのは1199年で、兄リチャード獅子心王がフランスで死亡した年です。ジョンはフランスにある広大な領土も相続しました※。
※ジョンの甥にあたるブルターニュ伯アーサーも後継者として候補に挙がったが、当時12歳と若かったこともあり、イングランド諸侯やノルマンディ諸侯はジョンを支持した。
フランスの領土を失う
ジョンの治世は、ほぼフランス国王との戦争に明け暮れました。フランス国王フィリップ2世がジョンが相続した領土に侵攻したためです※。
※ジョンは、再婚を巡って、また甥のアーサー暗殺疑惑をめぐって、フランス国王フィリップ2世から召喚されたが出廷を拒否し、対立関係があらわになった。
1200年5月にル・グレ条約( peace treaty of Le Goulet )が結ばれてから、短い平和が訪れましたが、1202年から戦争が再開されました。ジョンはフランス国王フィリップ2世に破れて、1204年までのあいだに、先祖代々の領土であるノルマンディをはじめ、その他フランスにあった領土のほとんどを失いました。各地の諸侯が、大きな抵抗も見せずにフィリップ2世の軍門に下ったのです。
アンジュー、メーヌ、トゥレーヌの諸侯はアーサーを支持していたこともあり、早々にジョンを見かぎってフィリップ2世の軍門にくだりました。さらにはジョンを後継者として支持してきたはずのノルマンディの諸侯さえも、フィリップ2世の側に寝返りました。
そのむかし、1066年にノルマンディ公ウィリアムがイングランドを征服したとき、多くの諸侯がノルマンディとイングランドの両方に領土を得ることになりました。しかし13世紀にさしかかったジョンの治世の頃には、このような諸侯も分家が進んでおり、ノルマンディの諸侯はフランス国王の影響を強く受けるようになっていたそうです。
そうしたなかでフランスのノルマン貴族はフィリップ2世に忠誠を誓い、イングランドのノルマン貴族はジョンの支配下で不満を募らせてゆきます。
ジョンはのちの十年を失地回復の挑戦に費やしますが、成功することはなく、ついに1214年にブーヴィーヌの戦い( Battle of Bouvines )に大敗※してしまいます。
※イノケンティウス3世の支持をとりつけ、神聖ローマ皇帝やフランドル伯らと同盟を結んで、フランス(フィリップ2世)を挟み撃ちにするにするも、結果は大敗
叙任権を巡るローマ教皇との確執、そして破門
ジョンは、ローマ教皇とも揉めていました。1205年、教皇イノケンティウス3世( Pope Innocent III )は、カンタベリー大司教にスティーブン・ラングトン( Stephen Langton )※1を推しましたが、ジョンはこれを拒みました。そこで教皇はイングランドに聖務停止( interdict )を布き、ミサや結婚式や葬儀などの宗教儀礼を禁止して、圧力をかけました。ジョンは動じず、教会領の収入を差し押さえて資金調達を行いました※2。その結果、1209年に教会から破門されます。
※1 スティーブン・ラングトンとイノケンティウス3世は、ともにフランスで神学を学んだ旧友
※2 当主が亡命した司教領や修道院領の地代収入を横領(失地回復の遠征費に充てる見込みだったが、残念ながら破門された国王に従ってくれる諸侯がいなかった)
1213年、最終的にジョンは教皇の要求をのみ、のち150年に渡って、イングランド国王から教皇に年貢(金銭)を納めることに同意しました。
教会は政治的にも権力を握っていた
国の政治機関で働く人々は、ラテン語の読み書きができる必要がありました。聖職者を除いてはこの技能を習得している者が少なかったため、国は人材を聖職者に頼っていました。このため、国の機密が教会に握られているも同然だったのです。この状況が変化するのは、大学が創設されて世俗の人びとがラテン語や法律を学ぶようになってからです。(オックスフォード大学は11世紀末、ケンブリッジ大学は13世紀初頭に創設されました。)
バロン戦争と大憲章(マグナ・カルタ)
フランスでの戦費をまかなうためにイングランドに課した圧政と重税は、諸侯の不満を招きました。「バロン戦争(First Barons’ War)」として知られる反乱が勃発し、ジョンは劣勢となりました。
1215年、反乱勢を率いるリーダーたちがロンドンに進軍し、ジョン王の支持を止めた元国王派の人々に歓迎されました。国王に対する彼らの要求が文書にまとめられ、これがのちにマグナ・カルタとして知られることになります。ジョンは反乱勢のリーダーらとラニーミード( Runnymede )で会い、要求をのみました。1215年6月15日のことでした。
マグナ・カルタ( Magna Carta )には、国王の権力に制限を設け、封建諸侯の義務を定め、教会の自由を再確認し、自由農民(Franklin/yeoman)の権利を保証する旨が書かれました※。
※あまねく公正ではなく、諸侯の利害に重点が置かれ、また結果的にフランスにとって有利に働く面も否定できない内容。
しかしジョンの譲歩も長くは続かず、教皇イノケンティウス3世の支持を得て、マグナ・カルタの無効を宣言しました。内戦が再開されます。ついにイングランド諸侯は、フランス国王と組んでフランス王太子ルイをイングランドに招き入れます。このとき、北部からの上陸を手助けしたのは、スコットランド王アレグザンダー2世( Alexander II of Scotland )です。
ジョンは逃亡します。伝承によると、このとき王家の財宝を積んだ荷車がワッシュ( Wash )河口に沈んだとされています。まもなくジョンは赤痢を患い、1216年10月にニューアーク城( Newark Castle )で亡くなりました。
地図
ヘンリー2世の時代と、ジョン王を経たヘンリー3世の時代の、大陸における領土の比較図です。
参考
Kings and Queens of England & Britain
John,_King_of_England
Richard the Lionheart, King John, and the Magna Carta
King John (1199 – 1216)
A Really Useful Guide to Kings and Queens of England
物語イギリスの歴史(上)