ジョージ2世は、ジョージ1世の唯一の嫡男です。父ジョージよりは、イギリス人らしいアイデンティティを備えていましたが、政治についてはやはり、ロバート・ウォルポールに依存せざるをえない状況でした。
ジョージ2世は1743年の「デッティンゲンの戦い」に参戦しました。歴代のイングランド国王のなかで、軍を率いて自らが参戦した最後の例です。
1745年には、ステュアート家を支持するジャコバイトが、チャールズ若僭王※の指揮のもと反乱を起こし蜂起しました。「カロデンの戦い」で圧倒的勝利をおさめたのは、ジョージ2世の末男カンバーランド公爵が率いる政府軍です。チャールズはフランスに逃げ帰り、これがジャコバイト最後の大規模反乱となりました。
※チャールズ若僭王…ステュアート王家ジェームス2世の直系の孫にあたる人物
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ジョージ2世(George Augustus)
治世 | 1727年6月11日-1760年10月25日(33年126日) |
継承権 | ジョージ1世の息子 |
生没 | 1683年10月30日:Herrenhausen Palace 1760年10月25日 (76歳):Kensington Palace |
家系 | ハノーヴァー(Hanover) |
父母 | George I Sophia Dorothea of Brunswick-Lüneburg-Celle |
結婚 | Caroline of Brandenburg-Ansbach(1705年) |
子供 | フレデリック(Frederick, Prince of Wales) Anne, Princess of Orange Princess Amelia Princess Caroline Prince George William William, Duke of Cumberland Mary, Landgravine of Hesse-Kassel Louisa, Queen of Denmark and Norway |
埋葬 | Westminster Abbey |
年表
1727 | ジョージ2世、父を継いで王位に就く |
1729 | メソジスト派の起源:チャールズ・ウェズリー( Charles Wesley )がオックスフォード大学のリンカンカレッジでメソジスト運動をはじめる |
1732 | アメリカに植民地ジョージア建設の勅許:( Georgia ) |
フレデリック・ノース生まれる:1770年から首相(第2代ギルフォード伯爵 / Lord Frederick North ) | |
1734 | 農学者ジェスロ・タルが小論を発行:種まき機の利用など農業技術の向上に貢献( Jethro Tull ) |
1737 | ジョージ1世の妃が亡くなる:( Caroline of Ansbach ) |
1738 | メソジスト運動本格開始:ジョン・ウェズリーとチャールズ・ウェスリーが、ブリテン(イギリス)でメソジスト運動を本格的に開始 |
1739 | ディック・ターピンの処刑:ハイウェイマン(騎乗追いはぎ)のディック・ターピン( Dick Turpin )がヨークで処刑 |
ジェンキンスの耳の戦争:イギリスとスペインの戦争開始。口実は、かつて小競り合いの末に船長ジェンキンスの耳が切り落とされたこと。( War of Jenkins’ Ear ) | |
1740 | オーストリア継承戦争:~1748( War of Austrian Succession ) |
1742 | ウォルポールが首相職を辞職:( Walpole ) |
1743 | デッティンゲンの戦い:オーストリア継承戦争の一幕。ジョージ2世が軍を率いてバイエルンでフランス軍に勝利。( battle at Dettingen ) |
1745 | 若僭王チャールズのスコットランド上陸:スチュアート家の王位復帰に賭けて、2000人のジャコバイトがエジンバラに入場。プレストンパンズの戦いに勝利。( Charles Edward Stuart、Battle of Prestonpans) |
1746 | カロデンの戦い:ジャコバイトの敗戦( Battle of Culloden ) |
1748 | アーヘンの和約:オーストリア継承戦争の終結( Treaty of Aix-la-Chapelle / Treaty of Aachen) |
1751 | 王太子フレデリックが死去:( Frederick, Prince of Wales ) |
1752 | グレゴリオ暦を採用:ユリウス暦で積み重なった誤差を正すために9月2日の翌日を9月14日とした。また、かつては3月25日が年のはじまりだったのを、1月1日を年のはじまりと定義した。( Georgian Calendar ) |
1757 | 七年戦争の開始:イギリスがフランスに宣戦布告( the Seven Years’ War ) |
プラッシーの戦い:イギリスが、ベンガルおよびフランスに決定的勝利( Robert Clive、Battle of Plassey、Indian province of Bengal ) | |
ウィリアム・ピット(大)が首相になる:( William Pitt ) | |
1759 | ケベックを掌握:ジェームス・ウルフがフランスからケベックを奪い、カナダを建設( Wolfe、Quebec ) |
キューガーデン:宮廷併設の庭園としてはじまる( Kew gardens ) | |
1760 | ジョージ2世の崩御 |
おもなできごと
ジョージ2世は、ドイツ北部産まれ
ジョージはドイツ北部で生まれ育ちました。ハノーヴァー選帝侯だった父ジョージが54歳でグレートブリテン王国の王位を継承し、1727年に亡くなると、息子であるジョージがグレートブリテン王国の王位を継承しました。
ハノーヴァー王家成立のいきさつ
1701年の王位継承法( Act of Settlement 1701 )および1707年の合同法( Acts of Union 1707 )によって、ジョージの祖母ソフィアおよびその子孫にグレートブリテン王国の王位継承権が委ねられました。この法は、カトリック派の王位継承権者を排除する目的で、イングランド議会の主導で作られました。
祖母ソフィアとアン女王が亡くなった1714年、父ジョージがジョージ1世として、グレートブリテン王国の王位を継承しました。
1727年に即位
ジョージ2世は父とおなじく、グレートブリテン王国の政治には支配権をほぼもちませんでした。政治は議会によって行われました。
ジョージ2世はグレートブリテン王国の国王であると同時に、ハノーヴァー選帝侯でもあったので、合計12回の夏をハノーヴァーで過ごしました。(ハノーヴァーにおいては、直接的な支配権をもっていました。)
ジョージ2世は、息子のフレデリック( Frederick )との関係が良好ではありませんでした。
オーストリア継承戦争
オーストリア継承戦争の戦いのひとつ、1743年の「デッティンゲンの戦い( Battle of Dettingen )」に、ジョージ2世は参戦し、軍を率いました。(ジョージ2世はイギリス史上、戦争で実際に兵を率いた最後の国王です。)
ヨーロッパ情勢:オーストリア継承戦争と外交革命
オーストリア継承戦争はハプスブルク家( Habsburg monarchy )の継承問題を口実として起きた領土争いです。1740年~1748年にわたって、中央ヨーロッパやハプスブルク領ネザーランド(現ベルギー)、イタリア、地中海、太平洋(植民地)が主な戦場となりました※。
新大陸アメリカで起きた「ジョージ王戦争( King George’s War )」や「ジェンキンスの耳戦争( War of Jenkins’ Ear )」、インドでの「第一次カーナティック戦争( First Carnatic War )」、二次にわたる「シュレージエン戦争( Silesian Wars )」も、オーストリア継承戦争に包括されます。
神聖ローマ皇帝カール6世には男系の世継ぎがなかったため、娘のマリア・テレジアにハプスブルク家の家督を継ぐ段取りを整えてから亡くなりました。しかしフランス、プロイセン、バイエルンは、これを「ハプスブルク家の覇権を潰す絶好の機会」と捉えて、継承問題に介入しました。これに対し、グレートブリテン王国、オランダ共和国、ハノーヴァーは、マリア・テレジアの擁護に回りました(国事詔書同盟 / Pragmatic Allies )。
この紛争を受けて、スペイン、サルディーニャ王国( Sardinia )、ザクセン( Saxony )、スウェーデン、そしてロシアが、それぞれの思惑に沿うサイドに味方して参戦し、大きな戦争へと発展しました。
この戦争の明確な勝者は、オーストリアからシレジア( Silesia )を得たプロイセンです。マリア・テレジアは、オーストリアのシレジアをプロイセンに割譲するよう主張したイギリスに憤慨しました。これにより、イギリスとオーストリアの同盟関係には亀裂が生じました。また、ハノーヴァーとイギリスの関係についても微妙なものであることがわかりました。ハノーヴァーは国王の出身国というだけであり、イギリスの政治家にとっては、オーストリアのために費やした莫大な援助金に見合う見返りを得られていないと感じられたからです。
この戦争の結果、ヨーロッパの外交関係において、「外交革命( Diplomatic Revolution )」として知られる重要な転換が起こりました。17世紀以来の宿敵であり外交問題の根源となっていたオーストリア・ハプスブルク家とフランス・ブルボン家( French–Habsburg rivalry )が、同盟を結んだのです。いっぽうで、プロイセンはイギリスと結ぶことになりました。1756年に勃発する「七年戦争( Seven Years’ War )」は、こうして出来上がった新たな国際関係が前提となっています。
ジャコバイト最後の蜂起と「カロデンの戦い」
1745年、若僭王チャールズ( Charles Edward Stuart )に率いられたジャコバイトが、ジョージ2世の廃位をめざして蜂起しました。ジャコバイトとは、カトリック派の王位請求者であるジェームス・フランシス・エドワード・ステュアート( James Francis Edward Stuart / 老僭王)を支持する人々です。
1745年のジャコバイトの蜂起
「1745年のジャコバイトの蜂起」は、オーストリア継承戦争の最中に行われました。半分以上のイギリス兵がヨーロッパ大陸へ遠征しているときです。
チャールズ(若僭王)は1745年8月19日にスコットランドハイランドのグレンフィナン( Glenfinnan )で反乱を起こしました。エジンバラを掌握し、9月の「プレストンパンの戦い( Battle of Prestonpans )」で勝利をおさめます。10月の会議でチャールズは、イングランドのジャコバイトから多大な支援が見込まれること、そしてフランスからの援軍が南イングランドに上陸することを告げました。これを聞いてスコットランド人はイングランドに侵略することに同意しました。
スコットランドのジャコバイト軍は、11月にイングランドに入り、12月4にはダービー( Derby )まで進みました。しかし侵略軍はここで、引き返すことを決断します。侵略軍は、イングランド内でもジャコバイトが多いとされる地域を選んで進軍してきました。しかし、約束されていたジャコバイトの支援は、実際のところ、ほとんど得られなかったのです。
スコットランドのジャコバイト軍は、退路を断たれた危険な状態におかれました。チャールズと、ジャコバイトの間にも亀裂が生じます。1746年の「フォルカーク・ミューアの戦い( Falkirk Muir )」でこそ勝利をおさめましたが、カロデンの戦いで大敗を喫しました。
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抜粋文:1745年のジャコバイト蜂起はチャールズ・エドワードがおこなった挑戦です。1869年の「名誉革命」で王位を逐われたジェームズ2世はチャールズの祖父にあたります。.....
息子の死と、孫への王位継承
1751年、ジョージ2世の息子フレデリックが、突然、亡くなりました。ジョージ2世はこの9年後に亡くなります。王位は、亡きフレデリックの長男ジョージ(3世)に継がれました。
ジョージ2世の崩御から約2世紀の間、歴史はジョージ2世を軽蔑する傾向がありました。愛人にうつつを抜かし、短気で野暮な国王と評価されたのです。しかし20世紀半ば以降にジョージ2世が残した物事の再評価が行われ、外交に対する影響力の大きさや軍事的な才能について、以前よりも評価されるようになりました。
地図
植民地ジョージア
カロデンの戦い
参考文献
- A Brief History of British Kings & Queens
- Robinson; UK ed.版 (2014/3/27)
- Kings and Queens of England & Britain
- by Ben Johnson | Historic UK Ltd. Company
- George II of Great Britain
- Wikipedia | edited on 15 August 2022, at 06:44 (UTC)
- George II king of Great Britain
- Britannica | By The Editors of Encyclopaedia Britannica| Updated: Nov 06, 2021
- https://www.britroyals.com/rulers.asp
- Britroyals | British Royal Family History
- グレゴリウス暦
- 世界史の窓|世界史用語解説 授業と学習のヒント