リチャード3世(Richard III)
       

リチャード3世は、ヨーク家の最後の国王であり、プランタジネット朝の最後の国王でもあります。

12歳の甥エドワード5世を廃位し、自身が王位に就きましたが、ボズワースの戦いでヘンリー・テューダーに破れて落命します。

シェイクスピアの作品「リチャード3世」では醜い悪役として描かれ、そのイメージが後世に残されましたが、実態は少し違ったようです。

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リチャード3世(Richard III)

リチャード3世
出典 Wikimedia Commons
治世1483年6月26日-1485年8月22日(2年58日)
継承権エドワード3世の子孫
議会が承認(Titulus Regius
生没1452年10月2日:Fotheringhay Castle
1485年8月22日(32歳):Bosworth Field
家系ヨーク家(York
プランタジネット家(House of Plantagenet
父母 Richard, 3rd Duke of York & Cecily Neville
結婚Anne Neville(1472年)
子供Edward of Middleham
ほか私生児
埋葬Greyfriars, Leicester のち Leicester Cathedral(2015)
リチャード3世

年表

1483エドワード5世と王弟リチャードがロンドン塔に幽閉される
エドワード5世の叔父リチャード3世が自身の王位を宣言
1483バッキンガム公爵が式部卿( Great Chamberlain of England )に任命される
10月、バッキンガム公爵( Henry Stafford )の反乱
リチャード3世によって制圧され、処刑される
ランス大聖堂にて、ヘンリー・テューダーがヨーク家のエリザベスとの結婚を誓う
(ランカスター家の亡命宮廷)
1484リチャード3世、ノッティンガム城の胸壁裏に軍事本部を設置
リチャード3世の唯一の息子エドワードが7-10歳で死去
イノケンティウス8世が「魔術師」に対する教皇勅書を発布
法令が初めて英語で書かれ、印刷される
1485リチャード3世の妃アンが死去
リッチモンド伯ヘンリー・テューダーが西ウェールズのミルフォードヘブン( Milford Haven )に上陸し、ランカスター派の支持者をあつめる
ボズワースの戦い( Bosworth Field )でリチャード3世がリッチモンド伯ヘンリーに破れ落命
「ばら戦争」と「プランタジネット朝」の終結
リチャード3世の遺体はグレイフライアース教会( Greyfriars Church )に埋葬される
リチャード3世の治世年表

おもなできごと

生い立ち

リチャードは、エドワード4世の弟で、エドワード5世の叔父にあたります。

1461年に兄エドワードが王位に就いたあと、グロチェスター公爵に叙せられました。1472年にアン・ネヴィル( Anne Neville )と結婚します。アン・ネヴィルはウォリック伯リチャード・ネヴィルの娘です。

※ウォリック伯リチャード・ネヴィル(16th Earl of Warwick)…ヨーク家を支持して戦いエドワード4世を王位に就けたのち、エドワード4世を見限って1469年に反乱、ランカスター家のヘンリー6世を復位に至らせた。1471年にエドワード4世の反撃を受け、破れて落命。「キング・メーカー」の異名をもつ。

アン・ネヴィル

1472年、19歳のリチャードはアン・ネヴィルと結婚しました。アン・ネヴィルはウォリック伯の娘で、母方からエドワード3世の血も引いていました。かつてランカスター家ヘンリー6世の息子エドワード王子と結婚しましたが、エドワード王子はヘンリー4世に破れて亡くなっていました。そのため未亡人でした。

この結婚を通じてリチャードは、ウォリック伯の莫大な遺産のおよそ半分を得ることになりました。

リチャードは愛妻家であったと云われています。ふたりの間にうまれた唯一の息子エドワードは身体が弱く、1484年8月に8歳前後で亡くなりました。前年に王位についていたリチャードは、世継ぎを失い大いに取り乱したといいます。妃のアンの健康状態は思わしくなく、子供を望めないまま、翌年の3月に息をひきとりました。

妃アンの死について、再婚と子供を望んだリチャードが毒殺したとする見方もあります。しかし再婚がなされるより先に、リチャード3世は戦死しました。ヨーク家のエリザベスとの再婚が準備されていたようですが、ヘンリー・テューダーとの結婚を阻止するための手段に過ぎなかったとも考えられています。

リチャードはイングランドの北部を管轄し、1482年のスコットランド侵攻( invasion of Scotland )で軍を率いました。

エドワード5世の廃位とリチャードの即位

エドワード4世が亡くなった1483年、12歳の甥エドワード5世の王位継承が決まると同時に、リチャードは「護国卿( Lord Protector」に就任しました。

※護国卿…ここでは摂政職のようなもの。

エドワード5世の戴冠は6月22日に行われることが予定されました。しかし、この戴冠が実際に行われることはありませんでした。リチャードが、亡き兄エドワード4世の結婚を重婚であるとして無効化を主張したからです。

リチャードの言い分は「エドワード5世はエドワード4世の私生児にあたるので継承権がない。正当な継承者は自分である。」でした。

6月25日、貴族と地主層の集会が行われ、この主張が承認されました。そして、エドワード4世の弟であるリチャードの王位継承が正当であることが宣言されました。

リチャードの行いを許容できない人々もいましたが、容認する人々が一定数いました。ヨーク家とランカスター家の争いはまだ終わっていませんでしたし、イングランドとしても全権を握る強い大人の国王を必要としていたからです。

リチャードのライバル

エドワード4世が急逝したとき、実権を握ろうと目論んだのはリチャードだけではありませんでした。リチャードにとって目下のライバルは、エドワード4世の妃の出身家系であるウッドウィル家でした。

ヨーク( York )に居たリチャードは、兄王崩御の知らせを受けて急いで南下しました。ウッドウィル家はラドロー( Ludlow )に居たエドワード5世を連れてロンドンに向かっていました。

リチャードは、ストーニー・ストラットフォード( Stony Stratford )でエドワード5世の一行に出会います。その先は自らが王子の護衛にあたってロンドンに入り、そのまま王子をロンドン塔に送りとどけました。

この頃のロンドン塔は王室の居所として機能していたので、王子を滞在させる場所としておかしなことではありません。ただしロンドン塔は他者を寄せ付けない強固な要塞でもあり、これはエドワード5世がリチャードの支配下に置かれたことを意味しました。

これを見てウッドウィル家が黙っているはずがなく、行動を起こすことをリチャードは予想していました。そして予想通りに事が運ぶと、リチャードはウッドウィル家のアンソニー( Anthony Wydville )を反逆罪で捕らえ、裁判なしで処刑しました。

また、かつてリチャードの支持者だったヘイスティングス男爵( William Hastings )は、リチャードが王位を狙っていることを知ると、これに反対しました。そのため逮捕され、処刑されました。

リチャード3世は1483年6月6日に戴冠しました。「ロンドン塔の王子たち( Princes in the Tower )」と呼ばれたエドワード5世とその弟リチャード(ヨーク公爵 / Richard of Shrewsbury )は、8月を最後に姿を見られることがなくなりました。

リチャード3世の命令によって殺害されたとする説が有力ですが、真相は不明のままです。

2つの大きな反乱、敗北そして落命

リチャード2世の治世に起きた主な反乱は次のふたつです。

鎮圧できた反乱

1483年10月、かつてリチャードの支持者だったバッキンガム公爵(Henry Stafford)が、ウッドウィル家およびヘンリー・テューダと同盟し、リチャード3世に対する反乱を起こしました。バッキンガム公爵は捕らえられて処刑されました。

ヘンリーはフランスのブルターニュに残り、ウッドウィル家と協力して、つぎの機会をうかがいました。

鎮圧できず敗北し落命「ボズワースの戦い」

1485年8月の反乱を率いたのは、ヘンリー・テューダー( Henry Tudor )です。叔父のジャスパー・テューダー( Jasper Tudor )とともに、フランス軍を率いて南ウェールズに上陸しました。ペンブロークシャー( Pembrokeshire )にむかって進軍する途中で兵士を雇い入れ軍を増強しました。

ヘンリーの軍は、ボズワース( Bosworth )の町に近い場所で、リチャードの軍を破りました。リチャードは戦死します。

これは、戦争によって国王が殺害される最後の事例となりました。リチャードはヨーク家の最後の国王となり、またヘンリー2世に始まる広義のプランタジネット朝の終焉ともなりました。

現在の時代区分では、これをもって「中世の終わり」と定義し、ヘンリー7世によって開かれるテューダー朝をもって「近世の始まり」と定義しています。

リチャード3世の最後

リチャード3世は、ヘンリー・テューダーを討とうと自ら接近戦におよんだと伝えられています。ヘンリーに討たれたリチャードの遺体は、裸にされ馬の背に載せられて、埋葬のためレスターに運ばれました。リチャードの王冠は戦場の茂みで見つかったと云われています。

21世紀に、遺骨が発見される

リチャード3世の遺体は、近くの町レスター( Leicester )に運ばれ、葬儀なしで埋葬されました。リチャード3世の当初の墓石は、16世紀に起こる宗教改革( English Reformation )の際に移動されたと信じられ、遺骨は川( River Soar )に投げ捨てられたものと考えられてきました。

2012年に「リチャード3世協会( Richard III Society )」が発掘調査( an archaeological excavation )を行い、駐車場となっていた土地からリチャード3世の遺骨を発見し、ニュースになりました。リチャード3世の姉アン( Anne )の子孫は21世紀の現在を生きており、この子孫の遺伝子( mitochondrial DNA )と照合したところ、間違いないことが確認されました。

地図

ボズワースの戦い

ボズワースの戦いの戦地となった場所です。

ミドルハム城

リチャード3世が幼少期を過ごした城です(Middleham)。

遺骨の発掘場所

リチャード3世の遺骨が発見された場所です。


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参考
Richard III of England
King Richard III (1483 – 1485)
物語イギリスの歴史(上)
A Brief History of British Kings & Queens

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