アングロサクソン人の社会
ノルマンコンクエスト(1066)が起こる前のイングランドは、アングロサクソン人が統治する王国でした。 アングロサクソン時代の初期、イングランドの土地のほとんどは森でした。人口も少なく、総じて100万人ほどだったと推測されています。ひとびとは小さな村に暮らしていました。ほとんどの村は100人未満の人口でした。それぞれ村単位で自給自足の生活をし、衣食をまかないました(塩と鉄だけは外部から入手しました) […]
ノルマンコンクエスト(1066)が起こる前のイングランドは、アングロサクソン人が統治する王国でした。 アングロサクソン時代の初期、イングランドの土地のほとんどは森でした。人口も少なく、総じて100万人ほどだったと推測されています。ひとびとは小さな村に暮らしていました。ほとんどの村は100人未満の人口でした。それぞれ村単位で自給自足の生活をし、衣食をまかないました(塩と鉄だけは外部から入手しました) […]
紀元43年にローマ軍がブリタンニア侵攻に成功して以来、1世紀のイギリスは徐々にローマ帝国の支配下に置かれました。ただしブリテン諸島(現イギリスを構成する主要な島々)の全土が征服されたのではなく、おもに本島の南西部~現イングランドにあたる地域が、ブリタンニアとしてローマの属州となりました。 ローマ帝国は、ブリタンニアを地理的に制御するために、多くの建物を建て、道路や橋などのインフラを整備しました。征 […]
先王ヘンリー1世は、娘のマチルダを王位継承者に指名していましたが、甥のスティーブンはこれに従わず、マチルダに先んじて自らが戴冠しました。 スティーブンとマチルダは従兄妹同士にあたり、両者の祖父はウィリアム征服王( William the Conqueror )です。スティーブンは母方からこの血を継いでいます。 1139年にマチルダがイングランドに上陸し、王位を争いました。どちらの勝利ともつかない状 […]
バイキングの襲撃によって839年にピクト人の王国が陥落、870年にブリトン人の要塞も陥落します。続く300年の間に、ゲール語族、ピクト人、ブリトン人、そしてアングロ人の諸王国が統一され、アルバ王国が始まり最終的にスコットランド王国として発展してゆきます。
ハロルドは、クヌート大王と前妻の息子です。クヌートと前妻の結婚はキリスト教に則ったものではなかったので、イングランドにおいてハロルドは婚外子(私生児)という扱いになります。クヌート大王が亡くなったとき、ハロルドはいちはやく自身の王位継承を主張しました。このころ正妻エマの息子であるハーデクヌーズは、デンマークの攻防戦で忙しくしていました。この隙にハロルドは正式にイングランド王位に就くことに成功しました。
摂政 / リージェンシー 時代の女性の装いについて整理しました。社交に忙しい上流階級のレディは、1日に3~4度ドレスを着替えることがあったかもしれません。予定のない日であっても、上流の家系ならディナーのために着替えるのが普通でした。
ノルマン人による征服をうけたイングランドには、その結果として数多くの「城 / 要塞」が建てられました。 その約8割がモット・アンド・ベイリー(motte-and-bailey)と呼ばれるスタイルの城です。モット・アンド・ベイリー型の城は、北欧を除く11世紀のヨーロッパでもっとも一般的だった城の形態です。 イングランドで最初の「城」はウィリアム征服王によって、戦略的に優れた場所を選んで各地に築かれま […]
チャールズ1世はジェームス6世/1世※の息子です。王権神授説を信じ、議会との関係を難しくしました。事態は悪化の一途をたどり、1642年に始まるイングランド内戦(ピューリタン革命)に発展します。 王党派は、議会派のニューモデル軍に敗戦しました。チャールズ1世は捕らえられ、投獄され、裁判にかけられました。 議会派のなかには「国王と条件付きの和解を求める人たち」と「国王の処刑を望む人たち」がいました。意 […]
ヘンリー3世は、第一次バロン戦争の最中に、9歳でイングランド国王に即位しました。僧侶によって育てられ、敬虔なキリスト教信者となり、芸術や学術、建築に傾倒しました。ゴシック様式でウェストミンスター修道院の再建を命じたのもヘンリー3世です。聖職者や妃の影響を受けやすい意志薄弱な人物だったと評されることがあります。 治世の後半に、第二次バロン戦争が勃発し、戦に負けて捕らわれの身となりました。その間に権力 […]
ローマが撤退した410年以降、旧支配下域はローマの加護を受けられなくなり、混乱の時代を迎えます。この時代の文献はほとんど残っていません。市は崩壊し、建物には石よりも木が作られるようになり、ローマ侵攻以前のケルト的なヒルフォート(Hillfort)が目立つようになりました。