A.2 特集

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リージェンシー・ファッション-女性編-

18世紀末から19世紀初頭にかけて流行したスタイルを「エンパイアスタイル」などと呼びます。胸のすぐ下で絞ってバストを支え、スカートをながすスタイルです。ドレスのなかに下着(undergarments)、外にはガウン(gowns)や上着(outerwear)を重ね着しました。上着は、スペンサー(spencer)やペリーズ(pelisse)が人気でした。動画では、下着からコルセット、ドレス、ガウン、アウターまで、エンパイアドレスを実際に着る様子を、解説付きで見ることができます。

アメリカ革命のながれ(2/2)

アメリカ革命(独立)戦争は「英領北アメリカの13植民地人」と「国王代理の総督府」の間に生じた亀裂が大きくなった結果の、”内戦”としてはじまりました。1778年にはフランス国が植民地人サイドについて参戦してきます。イギリスの内戦であったものが、国家間の対立に発展しました。1781年、バージニアのヨークタウンでイギリス軍が敗戦します。公式の終戦は1783年ですが、植民地人はここで事実上の独立を勝ち取ったようなものです。

アングロサクソン時代の宗教

ノルマン人による征服(1066年)よりも以前から、イングランドではキリスト教が信仰されていました。教会は強い影響力をもっていました。 初期…改宗と発展 サクソン人は異教徒だった ブリテン島にやってきた初期のサクソン人は、自然を崇拝し複数の神々を信仰していました。このサクソン人の信仰については、詳しいことはわかっていません。 サクソン人の宗教がどのようなものであったかは、ものや場所の名前に名残がみら […]

アーサー王伝説が生まれた経緯:ローマ撤退後のブリテン島(2)

アーサー王は実在した王でしょうか。おそらく実在はせず、民間伝承から創作された架空の王だとするのが現在の歴史家による一般的な見解です。では、アーサー王の伝説はどのようにして生まれ、語り継がれてきたのでしょうか。現存する文献のなかで、アーサーの名が登場するもっとも古いものは9世紀の”歴史書”です。12世紀の”列王史”にさらに詳しく書かれ、すぐにアーサー王ロマンスとして物語化され、中世文学の核となりました。

ノルマンコンクエスト【城のはじまり】城のタイプと目的そして影響

ノルマン人による征服をうけたイングランドには、その結果として数多くの「城 / 要塞」が建てられました。 その約8割がモット・アンド・ベイリー(motte-and-bailey)と呼ばれるスタイルの城です。モット・アンド・ベイリー型の城は、北欧を除く11世紀のヨーロッパでもっとも一般的だった城の形態です。 イングランドで最初の「城」はウィリアム征服王によって、戦略的に優れた場所を選んで各地に築かれま […]

18世紀~19世紀の陸路

これまでの穴だらけ泥だらけの道に比べて、修繕された有料道路は快適でした。旅人や商人は「有料」の「価値」を認めはじめました。 道路のコンディションがよくなると、馬に背負わせる荷物の量を増やすこともできます。18世紀の終わりには、馬は1頭あたり 3,000kg 以上の荷を運んだそうです。 有料道路の運営と管理は民間団体に信託されました。ターンパイクトラスト(turnpike trusts)といいます。

8世紀~12世紀のウェールズ

ウェールズは頻繁に内輪揉めの内戦を繰り返していました。アングロ=サクソン時代のイングランド※および、ノルマン征服以降のイングランド※からの圧力も受けました。/1. オッファの壁(8世紀)2. グヴィネズ王ロドリの覇権(9世紀)3. 南西の小王国の統一(10世紀)4. バイキングによる襲撃(10世紀)5. グリフィズによるウェールズの統一(11世紀) 6. ノルマン人の侵攻(11世紀) 7. ウェールズの反乱と領土の回復(12世紀)

8世紀~12世紀初頭のアイルランド

バイキングはダブリンのほかにも町を築き、アイルランドそして西ヨーロッパの経済に影響をあたえるようになります。ブライアン・ボルは、事実上アイルランドを統一したとも言えるでしょう。ディアルマド・マク・マール・ナ・ムボはダブリンをも掌握しアイルランドの覇権はスコットランド沖まで拡大します。トイルデルバフはフランス、スペイン、イングランドの支配者や権力者と政治的および商業的なつながりがあり、アイルランドの存在感を示すとともに交易の発展に貢献しました。

中世初期のスコットランド(5世紀~7世紀)

ローマ人がブリテン諸島から撤退してからのち数百年、現在のスコットランドに相当する地域にはおおきく4つのグループが存在しました。東にピクト人の王国、西にゲール語族の王国、南にブリトン人の王国、南東にアングル人の王国です。また広くキリスト教化されました。

ボストン茶会事件:「茶法」とはどんな法で何が問題だったのか

「ボストン茶会事件」は、急進派の植民地人による「茶法」への抵抗、ひいてはイギリス議会への抵抗運動です。茶葉は「イギリス東インド会社」から輸入される予定のものでしたが、北アメリカの植民地人は茶葉の荷下ろしを拒絶しました。ボストンでは、40トンの茶葉が海に投げ捨てられました。「茶法」とはどんな法なのか、そして何が問題だったのか、まとめました。

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